畑で働きはじめて早一ヵ月。早朝、数時間だけ働いて、それからは森に家をつくるために、木を伐ったり、整地したりしている。一日数千円だけでも、収入があると安心するものだ。いくら水道光熱費や、食費がかからないといっても、完全に金が必要なくなるわけではない。国民の義務として税金や社会保障費は納めなければならないし、車を動かすにもガソリン代はいる。猟師になれば、肉を買う必要はなくなるが、狩猟をするためにも、猟師保険料や登録税を払わなければならない。野菜はもらえても、欲しい道具や本なんかは自分で買う。暮らしがかぎりなく、「生」に近づいていっても、”洞窟おじさん”のような山ごもりを、完全に果たさないかぎりは、「日本国」のシステムから縁を切ることはできないだろう。
もっとも、縁を切ることが正しいとも思わない。これまで日本国の世話になってきた以上は、国のために働き、義務を果たすことが道理だと思うし、金を支払えば対価を得られる世の中のおかげで、われわれの生活はどれほど豊かになっていることだろうか。隣近所の畑で採れる野菜の代わりに、複雑な物流網にのった海の向こう側の野菜を食べるような”行きすぎておかしくなりすぎた国のシステム”、つまり、金と利権によって複雑に洗練されすぎた生活網から、少しでも自由になれれば十分なのである。もし、金の束縛から自由になる道があるとすれば、ここに活路は拓くだろう。
はじめて湧水を汲むとき、川で洗濯をするとき、水道代を払わなくても生きていけることを知る。はじめて野菜を育てるとき、野菜をもらうとき、スーパーで買わなくてもいいことを知る。丸太で掘っ立て小屋を建てるとき、数万円の家賃を支払う必要も、数千万の家を買わなくてもいいことを知る。暗い夜をロウソク一本で過ごすとき、電気がなくても明るいことを知る。一つ一つの体験が、こうあるべきという洗練された感覚を洗い流し、素朴な、本来の形を思い出させてくれる。金の束縛から自由となり、野性を取り戻してゆく。
2024.8.28
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