お前は己の命を捧げるに値しない[777/1000]

傲慢であろうか。働いていると「お前は己の命を捧げるに値しない」と思うことがある。逆を言えば、「この人のためになら己はどこまでも身を捧げよう」と思うこともある。

 

高校生の頃、素晴らしい恩師に出会い、硬式テニスで県大会を優勝し、念願のインターハイでベスト16まで進んだ。恩師は鬼のように厳しく、毎日の練習は血反吐が出るほど死狂いだった。練習もさることながら、練習外での規律も重んじられ、日常生活の礼儀態度も徹底されたことから、他校の生徒からは、まるで軍隊のようだと言われるようになった。

練習はたまらなく苦しく、実際逃げ出した。それでも恩師のもとに戻ったのは、この人物が義しいと本心が分かっていたからだ。インターハイなど正直どちらでもよかったが、師に報いるため、インターハイに行かねば思うようになった。そうして、勝利を手にすることができた。己を何かに捧げられた季節を青春と呼ぶのだ。いい人生だったと言える季節を振り返れば、必ずいつも死に狂いだった。

 

いくら仕事の待遇がよくても、そこに天を貫く大義がなければ、長くは続かなかった。上に立つ人間の人格が卑しい場合も同じだった。お前は己の命を捧げるに値しないと感じた。逆にいくら待遇が悪くとも、大義があれば、待遇など問題にしなかった。時間内とか時間外もどうでもよく、寝食よりも働いた。

人間は死に場所を求めている。よき国とは、よき会社とは、よき師とは、死に場所を与えてくれるものである。居場所、居場所と言われるが、そんなものは勝手に生まれる。死に場所を得られず、生きた人間がどうなるかは、世間の醜態を見れば言うまでもあるまい。

今日も俺は死に場所を求める。天の下で死ねることほど仕合せなことはない。

 

2024.8.5

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