巷にあふれる健康論はどれも女々しい[765/1000]

俺は巷にあふれる健康論に女々しさを見る。運動習慣がたいせつだとか、ストレスを抱え込みすぎないだとか、食生活に気をつけるだとか、いい睡眠をとるだとか、その大半はなんだか湿っぽい。少し科学をかじった者は、食品添加物や農薬、マイクロプラスチックなどの環境汚染に敏感になる。それは事実かもしれないが、縛りを自分に課しすぎて、かえって神経が過敏になる。

 

俺は健康論の中核に精神論を持ち込む。病は気からの言葉のとおり、病気とは女々しさから生まれるものだと信じる。気が弱い人間は、胃が痛くなりやすい。食えぬは餓死だが、食わぬは断食だ。肉食の是非がよく問われるが、血が高ぶるほど獣肉を食らいたくなる。これは俺たちに備わる野性だ。同じ肉食でも、生活の欲望で貪るのとは訳が違う。冬にたくさん着こめば、かえって身体は弱くなるが、早朝、上裸になって乾布摩擦を行えば、身体の芯から温まる。古い知恵は身体を温めるが、科学の知識がかえって身体を冷やすことがある。

 

雄々しさは行為へと向かっていく。やらされているのではなく、己の意志が天を貫いた結果である。つまり、健康の知識はあっても、健康それ自体を問題としない。それよりも大事なこと、魂や永遠のなかを生きる。永遠が肉体に湿潤するほど、現世的なものを必要としなくなる。安逸で手ごろな食品よりも、古くて、深い食べ物を欲するようになる。これは食べ物にかぎらず、慣習にしても同じだ。浅い娯楽はかえって苦痛となり、読書を好むようになる。生きんとする意志の否定は、小さな自殺願望だ。絶望が身体を蝕むとき、身体に悪いと知っていてもなお、悪いものを身体に取り込んで、束の間の安楽を得る。

 

安直な結論だと言われようが、あえて直線的な答えを出そう。今この瞬間、ただしい心持ちでいることだ。それが叶わぬときは、クンバハカの出番だ。ケツの穴を締め、肩を落とし、下丹田に力を入れる。これを瞬時に行うのが中村天風先生の極意である。悪意は抱えてもよいが、悪意に屈するな。さあ、人間を信じよう。

 

2024.7.23

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