久々にカラッと晴れた。今日はいい秋晴れだ。
こんな日にゃ、めんどうな仕事はほっぽり出して、みなでどこかの緑に腰を下ろして、透明な空気でも吸いながら、のんびりひなたぼっこでもしていたい。みなでひなたぼっこをすれば、だれも働かずとも平和な社会はすぐにでも実現してしまうのではないか、みたいな妄想すら生まれる。
仕事を放りだせば「やべえ、オレやっちまったぞ」みたいな不安と、やっちゃいけないことをやっちまったぜみたいな爽快感が入り混じった一種の興奮状態になるけど、ひなたぼっこしていれば、そんな激情の波もすべてが穏やかになっていく気がする。
皆が仕事を放棄をして社会のあらゆるシステムが止まれば、冷静に考えて国は危機に陥る。だが、ひなたぼっこの魔力は強大で、それすらもどうでもよくしてしまう。そんな夢物語に真昼間から侵されてしまうくらい、今日の秋晴れは気持ちよく、すべてを穏やかにする。
無慈悲にも連休は開け、世間は平常運転に戻っていった。悲しいが、私は一人でいて、共にひなたぼっこをしてくれる伴侶はいない。
だがどこにいようと心の持ちようは、みなでひなたぼっこをしたいと願う。いまこの瞬間、はたらいている人も、はたらいていない人も、元気な人も、死にそうな人も、孤独な人も、孤独じゃない人も、みなで陽の温もりを感じ、手を組んで大きく伸びをしながら、涙が出るくらいのあくびをして、今の危機的状況のすべてを忘れてしまうくらいの束の間の平和を共有したい。
そんなことを思う朝。これを読む方が、ひなたにほくほくしていることを願う。
精神修養 #23 (2h/56h)
今日の心は散漫で、あれやこれやと、無限に考え事が起こる。しかし、瞑想後にどっと疲れる様子がないのは、考えながら身体の感覚にも気づいているから。(地に足が着いた状態)
特に「武士道というとは死ぬことと見つけたり」について、自分が死に得る場面を、あれやこれやと想像して、その時々に身体に生じる感覚を感じていた。
考え事は、頭と身体でするものである。頭で何かを考えているとき、身体にも感覚が生じ、身体に感覚が生じているとき、何かしらを考えている。思考にも感覚にも気づけているとき、散漫な心とあっても、共にいられている感覚がある。
[夕の瞑想にて]
10日間、誰とも話してはいけない、目を合わせてもいけない、瞑想合宿のことを思い出していた。厳格な規律の中で、1日10時間の瞑想をする。
1日10時間も胡坐を組んで座っていると、足にも尻にも激痛が走り、痛みとの戦いになる。そのため合宿には瞑想用の座布団が準備されていて、参加者は皆、それを使う。
瞑想用座布団は、お尻の部分にクッションが1枚余分に詰められていて、胡坐を組んだとき、足がお尻よりも低くなるように設計されている。その分、長時間座っても足の痛みが軽減されるというわけだ。
4日目くらいのこと。ふと他の参加者の座布団に目をやると、心なしか私の座布団より高さがあるように見える。別の者の座布団を見ると、やはり気のせいではなく、明らかに私のものより、お尻の部分に高さがある。
これは何かがあるぞ、と思い、瞑想を終えて立ち去ろうとする他の参加者の動向を観察していると、棚から予備のクッションを勝手に持ち出して、自分の座布団に重ねていることが分かった。
なるほど、標準よりもさらにお尻の部分に高さを出して、足の痛みを和らげようという魂胆だ。そんなことがゆるされるのか、と小賢しさに感服しながらも、私も1つクッションをとって自分の座布団に追加した。
5日目、6日目になると、さらに参加者の座布団はグレードアップしていき、8日、9日目くらいになると、もはや座布団ではなく、イスのようになっている者もいた。
瞑想を終えて立つと、積みあがった座布団(イス)が揺れて倒れそうになる始末で、この光景はさすがにあまりにも滑稽だった。煩悩を払おうというのに、この座布団の高さこそが、煩悩そのもののように思えた。
今日の瞑想中、そんなことが思い出されて、思わず笑ってしまった。
笑いながらも、意識は自分の身体に気づいていた。笑っているとき、胸や大胸筋から両腕にかけて初めての感覚が生じていた。いつも笑ってるときは、頭(思考)だけに意識がいってることが多いから、身体の感覚を意識的に感じることはなかった。
生を受けて28年、数えきれないほど笑ってきたが、身体の感覚に目を向けたのは、初めてだったかもしれない。
いとまを見つけては、隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」を読んでいる。私は書くのが遅いだけではなく、読むのもかなり遅い。しかし言葉1つ1つを、じっくり腹落ちさせる読み方は、とても心が落ち着いて、私はとても好きだ。言葉の意味以前に、人の言葉をじっくり汲み取る行為そのものに価値を感じている。
願わくば書くことも同じように、言葉1つ1つに思慮をこめ、心を落ち着けながら、書くことそのものに価値を見つけたいと思う。この道はまだまだ果てしない。
幼時からこんな言葉で育成されて来た男たちの剣がどんなものになるか想像がつくと思う。それは守りのない剣である。自分は既に死んでいる。死人を守るのは愚かであろう。剣はすべてこれ相手を殺すためにある。体力の尽きるまで斬撃に次ぐ斬撃を送り続けねばならぬ。これは死人の剣だ。死人が目を据えて、ひたすら剣を振って前進して来る様を想像して欲しい。それがこの時の旗本奴たちの印象だった。
隆慶一郎. 死ぬことと見つけたり(上)(新潮文庫)
よくもわるくも、現代は自分を大切にしすぎていると思う。自分が可愛くて仕方がなくて、だから虫が飛んできただけで、悲鳴を上げて刀をぶんぶんと振り回す始末だ。そんなんでは何をするにも自分の身体に傷かつかないように守るばかりで、ちっとも楽しくなかろう。
クマに怯えながら山を登るより、頂きからの眺望を心に秘めて登るほうが、山登りはずっと楽しくなる。ぬるま湯につかり過ぎて自分が可愛くなりすぎれば滑稽な人間となる。
守りの剣を一切捨て、ただ敵に向かって突き進むのは、自分が傷つかないか想像するだけでも怖いが、この怖さは本当に怖がるに値する怖さなのか、一度立ち止まって、静かな場所で見つめたい。
ゆっくりながら、引きつづき、生と死のテーマの探求はつづく。
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