生命と宇宙エネルギーの話[457/1000]

生命の話をしたい。以下はすべて、あくまで私の考えにすぎない。

昨日も書いたように、生命は宇宙からエネルギーを授かり、肉体を媒介し宇宙にふたたび放出する形でその循環をなす。エネルギーは主に、空気や食事や睡眠などから得られ、これを気という。しかし、エネルギーに過不足が生じると、肉体に病気などの不具合がおこる。東洋医学には、気が滞ると書いて、気滞という言葉があるが、これもエネルギーの過分が体内に残留するによって、排管がつまってしまうのである。

エネルギーは基本、残留することができないが、エネルギー保存の法則により、残留できない分はそのまま消えてくれるのではなく、必ずどこかで帳尻をあわせなければならない。それが、反芻思考を生んだり、生活習慣病などの病気を引き起こすのである。

 

誰でも経験はあるだろうが、小学生の頃のマラソン大会や運動会の日のように、ヘトヘトになった日には考える力すら残っておらず、親に質問されたときには、自慢話でもしてやりたいが、答える気力すら残っていないのである。考える気力すらなく、飯をうまく食って、風呂に気持ちよく浸かったら、あとは死んだようにぐっすりと眠るだけであるのに、。エネルギーが残留しなければ、悪いことを考える暇もなく、ただぐっすりと眠れて気分は自ずとすっきりする。これは、たちの悪い悲観的な思考を延々と繰り返す、鬱とは対照的であるといえる。

 

考えることも、エネルギーを使うことであるが、これはあくまで、肉体の別の部分にエネルギーが移動したにすぎない。頭に蓄積されたエネルギーは、何かしらの形で宇宙に放出しなければ、またそこで悪さをする。学校の試験では、何十分も考えて導きだした回答を、書くという行為によって紙面上に放出する。仕事では、考えたことを資料にまとめたり、誰かに話すことによって、エネルギーは放出される。私の森の家づくりも、考えることが作業の半分を占めるが、頭にエネルギーが蓄積された状態は鬱屈とするが、それがつくる作業によって大放出すると、完成に伴い大変喜ばしい。

考えることは、宇宙にエネルギーを放出するための何かしらの行動を伴いたい。書く、話す、つくる、歌う、踊る、動く、働く、などである。

 

今日は楽観的に考えたいと思う。「人間とは病む存在である」と、どこかの偉人も言っているし、野生動物のように純粋な本能のまま生きないかぎりは、エネルギーは滞留し、病気は生れてしまうのである。そして、短期的にみれば、エネルギーの滞留により、元気をなくすこともあるが、エネルギー保存の法則があるならば、長期的にみれば、それを取り返すはずである。仮に今元気がなくても、そのうち必ず元気になるから大丈夫というのは、そういうことだと思う。鬱のときのように、ほんとうに不調なときは、自分が元気になることを信じられないが、現に私はそうであったが、今はすこぶる元気である。

 

“エネルギーを体外に放出する”ではなく、”宇宙に放出する”と書いたのは、それなりの意図がある。宇宙彼方の憧れに向かってエネルギーを放出する形で、武士道や騎士道のような人間としての美しい生き方が生まれたということだ。病的な人間だからこそ、ここにたどり着いたのだと思う。

ただ何となく海や山をみつめ、眠れない夜には、夜空の星や月を眺めているだけで、生命はどんどん元気になっている。

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