習慣となった道徳律や、自身に無意識に課している禁止事項が、知らぬところで生命燃焼の足枷となっていることがあるかもしれない。燃え尽きてその日を死んでいくように眠りにつきたいのに、善悪観念に引っ張られるあまり、不燃を起こすことは十分に起こりうる。
たとえば、「早寝早起き」といえば気持ちのいい習慣であり、これを悪だと言う人間は聞いたことがない。たしかに、規則正しい生活には、修行僧のような爽やかさがある。しかし、これをして模範的な善人となることはできても、それ以上のものはない。
何も悪人になれということではなく、しかし、善人になることが目的でもないわけである。なぜなら、我々は「模範的な善人」ではなく、ひとつの名をもった人間だからである。ここに「」はつかないのだ。
ここ数年、早寝早起きに生きてきた私は、慢性的に深い眠りにつくことができないでいた。しかし、思い返してみれば、友と夜通し遊んでいた日常の果てには、天国のような心地よい眠りを得ていたし、毎晩、勉強や仕事に死ぬ気で励んでいたときは、床について10秒もすればぐっすり眠れていたのである。
道徳は社会秩序の基盤となる、一つの規律であるが、これを守ることが主眼となれば、人間は”いい子”に流れ、生きることが楽しくなくなってしまう。道徳はすばらしいものであるし、これは守らなきゃいけないものでもあるのだけれど、同時に生命的には、破らなきゃいけないものなのである。
他にも「感謝」がある。感謝も確かにすばらしいことには違いないのだけれど、感謝できないこと、つまり道徳を破ることも起こりうるのが人間なのである。怒りたいときは、天に怒りをぶつければいいのだし、時には神に中指を立てて、我を通すことも必要なのである。
善人をめざすのは個人の自由であるが、道徳に縛られるだけの生活には、生命の躍動はない。
昨晩は久しぶりにぐっすりと眠れた。この死んだように1日を終える感覚を魂は渇望していたのだ。神よ、赦せ。しかし、道徳を破るほどに、神を近くに感じるのはどうしてだろうか。
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