「杜人(もりびと)環境再生医 矢野智徳の挑戦」という映画を観た。
矢野智徳さんは、「自然のお医者様」のような方で、人工的な建物で元気がなくなった自然を、自然に倣った手の加え方をすることで、元気にするという取り組みをされている。
例えば、「風の草刈り」といって、草を刈るときに根っこから丸ごと刈ってしまうのではなく、風の力でポキンと自然に折れる高さに合わせて、手鎌で撫でるように刈る。
こうすることで、雑草の根っこが、細かく分岐して、雑草の伸び方はおとなしくなる。細かく分岐した根っこは、水をよく吸ってくれるようになるので、土の状態も整っていくという。
映画では、矢野さんが風の草刈りをして、近くにいた人が「風の流れがよくなった!」と感動している場面があった。
木を伐るときも同じで、風の力でポキンと折れる位置で、枝木を間伐する。雑草と同様、木の根っこも、細かく大地に広くめぐらされ、成長が落ち着き、光の通りもよくなっていく。
植物は一気に刈り取ると、必死に生きようとするので、再び容赦なく生えてくる。
雑草を嫌う我々人間は、根っこから綺麗に刈ることを当たり前とするが、結果的に、何度も何度もいたちごっこをすることになる。
風の行いには、植物はおとなしく言うことをきくというのは、とても不思議だ。
自然のやり方で、自然に接していくと、自然は勝手に美しく整っていく。
この自然界の神秘的な力に感動した。
そんなことを人間の小さな手で、やりのけてしまう矢野智徳さんという人間にも、憧れを抱いた。
風、水、光の3つの視点に、「人」という4つ目の視点を併せもち、人間を絶対悪と決めつけず、自然と共存できる道を探求する姿勢は、かっこいい大人だと思った。
心に残った矢野さんの考え方の1つに、「雑草は必要だから生えている」「土砂災害は大地の深呼吸だ」というものがある。
これは人間の身体の仕組みにも、通ずるものがあるなと感じた。
例えば、『体を温めると病気は必ず治る』『「空腹」の時間が病気を治す』などの本で有名な、石原結實先生は「ガンは身体が汚れた血液を浄化するために起こす最終手段」だと考える。
身体はいつも、自分を守ろうとしてくれているが、血液が汚れすぎて身体がキャパを超えてしまうと、病気という形で、血液を自浄しようとする。病気はあくまで自分を元気にするために身体がとる最終手段というのだ。
矢野さんの自然への考え方も、これに通ずるものがある。
大地の下を流れる水脈が、ダムなどの人工的なコンクリートの建設によってせき止められてしまうと、大地の下の水脈の流れが悪くなる。
そこに大雨が降ると、大地の水分の保有キャパを一気に超えて、表層の土を流す形で、土砂災害は起きる。これが、土砂災害が大地の深呼吸という理由だった。
人間は、人間の都合で、善や悪、幸や不幸を決めてしまうが、すべての命は、ただ生きたくて、活動しているにすぎない。
私も、あなたも、あの人も、木々も、大地も、植物も、山も、川も、ただ、ここにある命を生きようとしている。そんな儚い生命活動の結果、あらゆる現象がただ起きている。
そんな視点で世界をみると、この世界が、尊い生命たちの善意ある働きと、交わりで成り立っているように見える。
こうして生きている今日は、無数の命が「生」という同じ方向に向かって命を燃やしつづけた、その末にある今日だ。
そんな命の世界に生きている。これが、生(なま)の世界。
人間の世界には、幸や不幸、善や悪、色んな決めつけがあって、ここだけで生きるには、私には少し苦しい。
生の世界は、命の活動だけがある。あらゆる生命が、「生」に向かってただ今日この瞬間の命を燃やしている。
生の世界でも生きていいと思えると、私は何だか元気になれる。
なんだって、我々人間は、もともと生ものだから。
今日の雲の下の、大濠公園のヒマワリ。
では今日はこの辺りで!
また明日!ばいばい!
コメントを残す