たぶん、幸福になれば、言葉は必要としなくなる。不幸のどん底、地獄のどん底から天に伸ばす手だけが、藁にもすがる思いで言葉を掴む。この1000日投稿がもし途絶えることがあるなら、それは私が刑務所に投じられるときではなく、地上の楽園を生きるときだと思う。投獄されたら、何としてでも言葉を残さなければ死んでしまうようで、塵紙にでも文字を書く。陰鬱な独房で綴る言葉は、これまでのどんな言葉より血がにじんでいるだろう。
今日、私は幸せの道を歩み始めている。いよいよ森を買うことになり、仕事もやめることが決まり、家づくりに没頭する日が近づいている。心躍る時間が増え、家なし生活にいよいよ終止符を打つのだと思うと、幸せな想像も膨らむものだ。しかしそんなとき、何かを置いてきぼりにしている感覚におそわれる。
この感覚に対して、以前出した答えはこうだった。
「『不幸に苦しむ人間を置いて、自分だけ幸せになってもいいものか』という罪悪感が自分を不幸にとどめる。」
これは偽善的で、自己満的な、楽な贖罪であった。なぜなら、自分が幸せになって不幸な人間に手を差し伸べることの方が、よほど建設的な努力と忍耐が必要になるからである。国境を超えて貧しい人間のために汗して働くことのほうが、よっぽど大変で立派なことなのだ。
そして、今はこう思う。
「幸せを拒絶するのは、幸せの型にはまることで、生命の形が失われることを怖れるからである。」
今日、幸せは人生の最大の目的であると信じられるが、私は生命を燃やすことに真実があると思う。幸せや不幸は、疾走する背中で、ひらひらと舞うマントのようなもので、先頭を突っ走るのはいつも生命である。生命が燃える結果、マントは上下に動くのであって、幸せに固執するのは、マントを引っ張って疾走を引き留めるようなものではないか。
ことに今日は、幸せでなければいけないという強迫観念に満ちている。幸せそのものは悪ではないが、幸せを人生の絶対の目的だと妄信する風潮と、幸せでなければならないという強迫観念については、私は拒絶する。
すべては生命に暴れてもらうためである。自由自在に疾走した結果、生命の形にドンピシャな幸せが見つかることもあるかもしれないし、不幸のまま死ぬこともあるかもしれない。しかし、生命が燃えてさえいれば、この運命は丸ごと愛することができる。燃焼の対にあるものは不燃。不燃とは倦怠のこと。既に倦怠にさいなまれる人生であるが、この倦怠を蹴散らすように生かねばと自覚する。
マルコによる福音書13章。「ショーシャンクの空に」でアンディが暗唱した一句。「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。」
(おそらく曲解だろうが)私にとって目を覚ましているとは、いつも生命を自覚しているということである。
不幸になるくらいのつもりで生きればいいと信じる。いつもここにあるのは、この心臓の鼓動と共に、生命がじりじりと燃える感覚だけであり、この燃焼音だけに耳を傾けていたい。
幸せか不幸かは、考えることはよそう。そんなことは考えなくても、散歩の折にふと足元を見れば、健気に咲くたんぽぽの中に見つかるだろう。
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