三島由紀夫の「葉隠入門」と、執行草舟の「超葉隠論」を繰り返し読むうちに、堅物だった言葉たちの血流を感じることができるようになってきた。
執行草舟は、7歳で葉隠と出会い、その後、モーセの十戒に倣って、自身で葉隠十戒をつくったという。私自身、葉隠を知れば知るほど、恋忍ぶことの大きさを目の当たりにしている。執行氏にとって、葉隠十戒は紛れもなく、恋の対象だったと思うが、それをこうして世に広める形で書にしてくれたことは、本当に感謝でしかない。
葉隠の著者である、江戸の佐賀鍋島藩士・山本常朝は、それを筆録した田代陣基に、「覚えたら火中にくべて燃やせ」と命じていた。葉隠が鍋島藩において禁書だったことのイメージが先立ち、「危険思想だから燃やせと命じられた」と認識されることも少なくない。しかし、山本常朝が燃やせと命じたのは、葉隠そのものへの忍恋だったからではないかと想像する。
葉隠は、葉隠を愛する人間の魂が、結果的に葉隠に背く形で、後世に伝わっているという不思議な書だと思う。だから今日、私が葉隠と出会ったのは何とも奇妙で不思議な縁のように感じる。
1000日の毎日投稿を試み、今日で126日目になる。私は猛烈に葛藤を抱えている。葉隠の中枢にある、忍恋の美しさを知れば知るほど、誰かに見える形で言葉を残すということに、制限がかかるようになったのだ。何でもかんでも感じたことを言葉にすることが、時として、忍恋に反する行為となる。いくらパーソナルな日記調のブログとはいえ、私にとっては誰かに読まれているという認識がある以上、胸に秘めた思いを打ち明ける感覚からは逃れられない。
自分がいいと思うことを誰かに伝えたい。しかし、伝えられない。言葉にすれば、その程度の安っぽいものになってしまう。この葛藤の中、126日目を迎えている。
1000日目まで突っ切りたい。この126日間は、僅か4カ月の月日だが、私自身にはそれ以上の重みがある。この毎日投稿が私を今日まで運んできた。これから1000日に向けて、私をどこまで運んでくれるか、その運命を知りたいのだ。
精神修養 #35 (2h/80h)
瞑想に集中できない。つい葉隠に思慮を巡らせてしまう。
・「世界が物質主義であり、生き伸びることが前提となっている以上、葉隠を実践したければ、意識的に死を選ばなければならない」
・「恋忍ぶことの『恋』と『欲望』の違いはなにか」
・「日本にはエロースやアガペーはなく、愛は恋の延長にあった。日本は恋の国だった。」
・「葉隠の恋は現代の恋に比べ、重厚感や品性を感じるのは忍恋だからだろうか。」
夕は、久しぶりの激しい運動に、心臓が飛び出しそうで、吐き気を催す中での瞑想だった。
気持ち悪さを感じながら、運動は「死に向かう行為」の1つだと思った。「働く」ことも同じ。肉体は苦しくてやめたいと叫ぶが、我々は苦しみを超えて魂の理想を追求する。
これの対にあるのは怠惰だろう。現代では、のんびり、リラックス、癒しといった言葉で誤魔化されることもある。度が過ぎれば、生きながら生きていないような状態になるのは、死ぬことから遠ざかり過ぎたからだ。
「私は怠け者である」と認めるのは楽だ。私自身も怠け者である自覚はあるが、これは人間が肉体を持つ以上、誰しもに備えられた避けられない性質なのだと思う。だから怠け者である一面を認めた上で、どこまで怠惰な自分を越えていけるか。そこに人間として生きる強さがあらわれていく。
本当に価値のあるものは人に伝わらない、という理が葉隠から見えてくる。逆に言えば、世間に晒されるものの美しさや価値の一部は、既に失われているのだ。本当の純粋性は、言葉になる前の、その人間の魂の中にある。だから行間を読まないとものの真価は見えてこない。
目に見えるものを見るのではなくて、目に見えない魂を見る力を養わなければいけない。
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