愛や友情は狂気の中にある。気違いと死狂いにある。[239/1000]

本気にては大業ならず、気違いになりて死狂いするまでなり。

この葉隠の一句が指す”大業”は、お金持ちになることでも、幸せになることでもなく、人間として生き、人間として死ぬことをさす。”本気”とは自己中心性の中で全力で生きることをいう。”気違いになりて死狂いする”とは、自己中心性から脱し、魂を基準に生きることを言う。”気違い”とは、自己中心性に生きる他者に見られた結果であり、気違いになっている本人は、自分が気違いであることを自覚しない。狂うことも同様で、魂を基準に生きる人間は、自己中心に生きる人間から見れば、狂っているように見える。つまり、人間(自分)の法を破り、自然の法に生きる様子が、”気違い”と”死狂い”である。

 

ドストエフスキー「罪と罰」を読んでいると、この葉隠の一句がよく分かる。気が狂ってる人間ばかり登場する。本気の人間だけが正気である。正気な人間は狂人を恐れる。しかし、本物の愛や友情は、狂気の中にあるものだと分かる。愛や友情は、宇宙のものである。その純粋を生身で体現しようとすれば、身を滅ぼし破綻することもあるのだ。場合によっては人を殺め、心中し、自己犠牲も厭わない。そんな魂を基準とした行為は、自分を基準とする肉体人間から見れば、気違いで狂っているようにしか見えない。狂った行いには、人から理解されない孤独がある。正気と狂気が行き来する中、孤独に罪の意識に苛まれ、愛する人を自分から遠ざけようとする。もうぐちゃぐちゃである。

 

貧しく、不幸で、悲哀の中に祈りがある。神に祈りを捧げるとは、身の全てを奉げること。この身を全て捧げますから、どうかお救いくださいと祈ることで。全身を神に委ねる祈りもまた気違いで狂った行為だと思う。誰かのために祈るとは、自分を犠牲にしてでも、誰かを救ってくださいと神にお願いすることではないか。

自分の身を奉げることのない祈りは、祈りではなく欲望である。欲望はいつも自己中心性から生まれる。愛や友情についても同じことが言えるだろうか。自分を犠牲にできない愛や友情は、実は損得勘定で付き合っているような欲望なのかもしれない。

狂ってる。狂ってる。人間は狂ってる。貧しくて、苦しくて、自己犠牲的で、恥辱と悲哀に堕ちて、不幸である。けれどもなんて、純粋で美しいのだろう。人間の厳しさに震撼しながらも、人間として生まれ人間として生きることに運命を感じている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です