命は幸せではなく、燃え尽きることだけを望んでいる[120/1000]

120日目。今日も書ける気がせぬ。何も書けないまま時だけが虚しく過ぎようとしているが、この記事を書こうとする私が向かう先が「死」であることだけは、はっきり分かる。

行動の帰結は死。何も書けずとも、私はただこの瞬間の命を燃焼させることだけを目的とする。いい文章が書けたか書けなかったかは問題にあらず、ただここにぶつかることができたか、何もない真っ白な紙の上に魂を乗っけられたか、その主観的な価値を重んずる。

 

最近の私のブログを毎日読んでくださっている方は、「お主、ちょいと葉隠に毒され過ぎでは」とお思いになる方もいらっしゃるかもしれない。実際、私の中では葉隠フィーバーが巻き起こっている。幸せを人生ゴールとする西洋哲学が絶対的なものではなくなり、死ぬこと、つまり命を燃やすことをゴールとする葉隠の生き方が、私の中で眩しい光を放つようになった。

これは私がこれまでに感じてきた現代の嘘くささや、美しいとか、かっこいいとか感じる人間の在り方が、葉隠の中に道として刻まれているからだった。葉隠に美しさを感じるという点で私はやはり日本人だった。

 

Youtubeにふと流れてきた、とある日本人のTEDスピーチを見ていたら「人の目標は皆違うけど、目的は皆同じ。幸せに生きること。不幸を目指す人間に僕は出会ったことがないから」というセリフが出てきた。以前の私であれば、これについて何の疑問も抱かなかった。しかし、葉隠を読んだ今では、こう言い切ってしまう日本人からはすっかり武士道が失われてしまったのだなと思った。

確かに葉隠は不幸を目指さないが、幸せを目指すこととも違うのだ。

 

幸せをゴールとする考え方に、私はいつも混乱してきた。なぜなら、幸せは既にここにあるものだったからだ。今なろうと思えば幸せになれてしまう。幸せが人生のゴールであれば、20代にしてゴールできてしまう。しかし、私はゴールしたくなかった。なぜならば、ゴールをすれば私の人生はそれまでになってしまうように感じていたからだった。

この問いについて、私は不幸を選ぶことを続けた。不幸を選ぶことによって、人生のゴールを避け、人生を続けることを選択した。このことについて、2020年2月に「幸せになれないなら自分を殺せ」という記事を書いている。

もし幸せになれないのなら、不幸であるうちに、成し遂げたい何かがあるからだと思う。幸せになったら成し遂げられない何かだ。それを成し遂げるために、不幸というダシを使い、あえて苦しみを選ぶ。見方によっては、それは「不幸」に見えたり、苦行に見えたり、息苦しく見えるかもしれない。けれど、それは決して不幸ではない。幸せの一部として、不幸を利用しているに過ぎないからだ。

引用:「幸せになれないのなら自分を殺せ」

 

私はこのとき、「命は幸せに向かうもの」だと思っていた。しかし命が幸せに向かうというのは願望で、実際は「命は死に向かっている」だけだった。

だから、幸せをゴールとしても、今ここにある幸せに気づいてゴールなんてことは、簡単にはできないのだ。命はつづくかぎり燃えつづける(死に向かう)ことを望んでおり、立ちどまればたちまち燃焼不良を起こし、死ねなくなるからだ。だから立ち止まって「幸せ」だという人間に嘘くささを感じるのだ。本当はもっと命を燃やしたがっているんじゃないか、不幸になっても、ぶつかりたいんじゃないかって思うんだ。

 

葉隠に潔さを感じている。死のために生きる。すべては死に向かう。今日も、今この瞬間の行動も、ただ死に向かっていく。

今日の命は、今日燃やすことにあって、それについては幸も不幸もないのだ。成功するかしないかも関係ない。これは、やるかやらないか、ぶつかれるかぶつかれないか、燃え尽きるか燃え尽きないか、つまり死ぬか死ねないかの問題なのだ。

 

葉隠は学べば学ぶほど、奥深さに感嘆するが、もうほんとに実践に尽きると感じている。どれだけ言葉にしても、実践しなければ、道の意味はなさない。

精神修養 #29 (2h/68h)

今朝も心が散漫である。思考は尽きず、呼吸もすぐにどこかへ旅に立つ。瞑想をしていてもこんなであるのに、瞑想をしていなければこの思考を野放しに1日を送るということになる。それは想像しただけでも、収拾のつかない、まとまりを欠いた1日になりそうだ。こういう日は昼間も呼吸に気づきながら、思考に振り回されないように心がけたい。

[夕の瞑想にて]

朝、心掛けたいと思ったものの、今日1日を振り返って、思考に振り回されてばかりだった。結果的に、先のことや、いらぬことをあれこれ考え、憂いの多い1日だった。なんなら夕の瞑想中も「俺はこの先もずっと孤独なのだろうか」みたいなことを考えては、勝手に悲しくなっていた。朝の瞑想で、その日の状態がどの程度のものか分かるかもしれない。また朝の瞑想においてどれだけ集中できるかが、1日をよく生きる鍵となろう。

今日は前半で燃え尽きたので、これで終わりにする。

葉隠の探求はまだまだ続く。探求だけではなく、実践もはじまる。

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