自分を死なせるとか物騒なこと書いて申し訳ない⑤[185/1000]

自分を死なせるという言葉を多く使いすぎると、死の緊張感は薄れてくる。こういう重たい言葉ほど、時と場所を見極めて慎重に使わないと言葉の本当の質量を見失いやすい。一方で、毎日死に光を当てることが習慣となるのはいいことに思う。社会とのかかわりを持てば、嫌でも生きる方に光が当たっていく。生きるばかりに光を当てて生きれば、自己の衝動の半分を存在丸ごと消してしまうような不安感をおぼえる。死に光を当てると地に足が着いて妙に落ち着く。光には陰がセットであるように、生き心地は死に心地の裏にしか存在しない。

 

「毎朝毎夕改めては死に改めては死に常住死身となる」「必死の観念一日仕切りなるべし」という葉隠の言葉のとおり、日々死ぬように心がける。当たり前のように自分を死なせようとしているが、ふと冷静に立ち返ると、死身とはどんな状態なのだろうと疑問に思う。いくつか基準は設けている。瞑想中の足の痛さや身体の寒さが問題ではなくなるとか、心身の緊張が解放された状態とか、呼吸だけになった状態とか。しかし、本当にこれでちゃんと死ねているのか?と問われればそうだと言い切れない自分もいる。

 

結局、死身となることは、判断を迫られたとき迷うことなく死に向かっていく手段に過ぎない以上、「これでちゃんと死ねているのか?」に対する答えは、日々の生き様の中でしか証明されない。朝夕死身になったとしても、日中の瞬間、瞬間において、生きる方に片付いてしまうなら、まるで意味がない。社会は生の衝動に満ちている以上、惰性で生きてれば、生きるほうに流されていく。葉隠が孤独になる覚悟を求めるのは、社会に染まるよりも、主体を保ち、人間のまま世界を生きよということだと思う。主体が常に重んじられ、対象は社会というより、世界でしかない。

 

葉隠の化身のような人物が主人公である小説、隆慶一郎の「死ぬことと見つけたり」を読み返している。この小説は、主人公の杢之助が朝、布団の中で入念に自分を死なせるシーンから始まる。

凄まじいまでに巨大な虎だった。岩の高所に軀を伏せ、血走った兇暴な眼でじっとこちらを見ている。いかにもしなやかな軀が、荒々しく息を吐くたび に波うつように見えた。今にも跳びかかろうという態勢だった。あの大きさでは、一跳びで自分に届くだろう。

(中略)

だが今朝の斎藤杢之助は、猛虎を退治することが目的ではない。自分が殺されること、正確にはその兇暴な爪で、金左衛門同様、頭のてっぺんから股座まで、まっ二つに引き裂かれて死ぬのが目的なのである。〈さあ来い、虎公〉

隆慶一郎. 死ぬことと見つけたり(新潮文庫)

 

杢之助が死身となる方法は、死に得るあらゆる場面を想定し、入念に死んでおくことだった。ある日は刀で斬られ、ある日は虎の爪に引き裂かれ、ある日は雷に打たれる。

自分の死をリアルに想像するのはかなり怖い。しかしこの「怖い」が生きる方に片付く理由であることは、経験上よく分かる。いつも足枷になるのは恐怖と緊張だった。一線を超えられるか否かの、僅かな一瞬に、自己の内に激しい戦いをしてきた。

 

この戦いをくだくだ長引かせ、惨めにも自分に敗れてしまう恥を避けるために、究極の恐怖である死を味わっておけというのが葉隠の教え。これもまた行水や断食に似ている。消極的であれば風邪と飢えをもたらし、積極的であれば身体を強くするように、消極的であれば取り越し苦労となるが、積極的であれば心身を恐怖から解放し自由にする。

 

目指したいところは、”積極的な死”だった。死に怯えながら生きるより、死に向かって生きていく方がカッコイイのは分かり切っている。だからやはり、いざという時に死ねるように、入念に死につづける。死んだことがないから、死ぬことは分からない。分かりたいけど分からないというのは、恋の掟のとおりだ。死にひたすら恋焦がれながら生きることが、葉隠の理想形なのかもしれない。

 

精神修養 #96 (2h/200h)

緊張の有無は死に向かえているかどうかの合図となる。マイナス7度の冷気から身を守るために肩が持ち上がり全身が強張る。無意識に生存本能が働いている。肉体が死に向かう時に緊張は生まれる。そしてこの緊張を超えた先に死がある。

強張った身体を脱力してみる。真冬の山の小屋の戸口を開けた時のように、冷気が一気に身体に入り込んでくる。しかし、死に近づけた感覚があった。緊張の手前が生で、緊張の奥に死があると思う。

 

[夕の瞑想]

あらかじめ決めた1時間経過の合図があるまでは、目を開けて瞑想を中断することはできない。途中で目を開ければ、自分の意思が働いたことを意味し、自分が死にきれていないことの証明となる。足が痛くとも、寒くて凍えていても、そんなことはどうでもよくなるまで座り続ける。

死身といっても、正直、明確な定義は分からない。何をもって死身となったかと断定することは難しい。呼吸だけの状態になるとか、感情も肉体の痛みも寒さも問題にならなくなるとか、恐れがなくなるとか。

1時間の経過の合図がなるまでは動かなかった状態が死身であるなら、規律(法)を身に纏うことが一つの答えになるかもしれない。

 

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