身体が凍えても、目の前の相手が寒そうにしていれば上着をかけてやる。米がわずかしか残っていなくても、飢えている人間がいたらこれを食えと差し出してやる。命を顧みず飛び出して行く。そんな自己犠牲的な愛に純粋さを感じるから、我々は感動するのではないのか。https://t.co/ALaVqFACPW
— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) December 18, 2022
自分を死なせるというと物騒に聞こえるが、物は言い方である。自分を死なせるとは、自分が透明になっていくこと。心地よく顔に触れては通り抜けていく風になること、凍えた身体を温めてくれる太陽になること、青春を深めてくれる湖の波になること、厳しい冬山になること。そうなるとき、自分は死身であり、自然の法と一体となっている。
武士道にかぎらず、キリスト教も仏教も、目指したところは同じに思う。自然の法は自分よりも上位に存在するもので、愛や友情に生きたいと思うのなら、自分に克って自分を超えていく必要がある。手段はそれぞれ異なれど、葉隠は、毎朝毎夕、改めては死んで常住死身となって、判断を迫られたときに迷うことなく死ぬ方に向かっていけば、法に近づいていけると言ったのだと思う。自分を生かす方に向かえば、法はいつまでも身にならず、水平的な生き方しかできない。武士道はこれを恥とした。
変な言い方だけれど、死身に近づくほど覚える心地よさがある。寒さも思い切って自ら突き進んでいけば、臆病風がすべて吹き飛んで清々しくなる感覚に近い。
詳細は省くが、昨日、やるかやらないかの判断を迫られ、やらない方向に流れそうになったが、やらなければ今日死にきれないなと感じ、死に向かうことにした。結果的に、大きな幸せを得ることになった。死に向かうことの方が重要で、幸せはあくまで副産物に過ぎなかったが、死身となって死ぬ方を選べば、自然の法に近づいていくことを身をもって確かめられた瞬間だった。
死身となるとは、身体も心がなくなることではない。自分を死なせたとしても、この肉体で地上で生きる以上は、身体も心もある。死身となるとは、心身が既に死んだかのように、問題を必要以上に大きくしないことだと思う。仏教の言葉を用いるなら執着しないこと。悲しいことは悲しく、嬉しいことは嬉しいが、それ以上でもそれ以下でもない。なぜなら目的は心身の状態にあるのではなく、魂の鍛錬にあるから。幸せと不幸は心身の問題で、仕合せと不仕合わせは魂を問題にする。死身となる目的は、幸せではなく、仕合せにある。
ここまで書いても、自分を死なせるといえば相変わらず物騒に聞こえる。しかし死身となることも目的ではなく、愛や友情に生きるための手段と考えるなら、死という黒い言葉にも、透明性が見えてくる。
私自身、物質主義に侵された現代人である以上、仕合せの先の幸せに憧れているのかもしれないと、昨日の経験を経て感じている。
精神修養 #93 (2h/194h)
・自分を死なせるとは、自分が透明になること。感情が消えるわけではない。当たり前だけれど、肉体として生きる以上、心も思考もある。
・心地よく顔に触れては通り抜けていく風のように、身体を照らして温めてくれる太陽のように、青春を深めてくれる湖の波のように、自分を死なせるとは自然の法と一体になっていくようなもの。
・生きる方に理由がつくと葉隠は言う。言い訳は、まさに生きる理由そのものだろう。仮に不条理なことであったとしても、ダイレクトに自分に不条理が突き刺さらないように、衝撃を和らげるために言い訳を用いる。つまり生きる方に傾いている。
・言い訳に見苦しさをおぼえるのは、勝負は見えていても、死にきれない往生際の悪さだろう。
・仮に不条理だとしても、己の非を受け入れ、不条理に突き刺されて死んでしまえばいいのだろうか。
・主に仕えるのは、主が天に仕えているから。主が法に背いたとき、反乱は起きるのだと思う。
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