秋田県にかほ市にいる。
夜も朝もずいぶんと寒くて、寝袋から身体がはみ出ると、少し寒いと感じるくらいだった。
その代わり、布団の温もりが気持ち良くて、よく眠れる。
このまま布団で1日過ごしていたいとも思うが、動かなければ、元気にならない。
何事も行動が先にくる。待っていても、始まらない。動くから、元気になる。動くから、始まっていく。
その理論で、今日もとりあえず動いていこう。
既に書いているとおり、私は相変わらず元気がない状態がつづている。
色々試してみた。海に飛び込んでは1人泳いで、玄米をたくさん食べて体力をつけて、しっかり運動をして心臓をバクバクさせている。
綺麗な夕陽を見て瞑想をして、ノートに言葉を書き殴って頭の中にぐるぐる渦巻く思考の排水も行った。
それでも、いまいち身体に力が入らない。何もかも、生きることが億劫に感じてしまう。
これはもう周期だと、割り切っている自分がいる。
本当はいつも元気モリモリでいたいが、波は誰にでもある。元気モリモリな時だけが人生じゃない。元気のないときには、元気ないなりの生き方がある。
状態に抗うのではなく、状態を受け入れてただ自然に過ごす。
アントニオ猪木の「元気があれば何でもできる」という言葉は、本当に的を得ていると思う。
何かを始めようと思うとき、元気があれば勇気はいらない。努力もいらない。
何かを続けるにしても、元気があれば、忍耐も、根性もいらない。
本当に元気なときは、ただ呼吸をするように、何事も自然にうまくできてしまう。人が生まれながらにして持つ、元の「気」というのは、それくらい強力なものだ。
しかし、だからこそ、元気がない状態にどれだけできるかは、その人間の真価が試されているような気もする。
本当に苦しいときや、思い通りにいかないときに、それでも笑って、人のことを思いやれる器があるなら、そんな人間は強いと思う。
私にとっては、今日をただ元気に過ごすことだけが、最大ミッションみたいな感じになっているから、今日を元気に生きて、今日もせっせと仕事をしている人を見ると、本当にすげぇなぁって思う。
けど見えていない景色も当然あって、私と同じように、今元気のない人や、働けず家に閉じこもっている人も世界には大勢いる。
元気そうに見えても、実は元気がなくて、ただ苦しいと感じながら、今日を精一杯生きている人もいる。
元気のないときは、どうしても世界が小さくなって、自分ばかりが大きくなる。
元気がないことばかりを気にしてしまう。
しかし、本当に生きなきゃいけないときは、元気があるかないか、なんて悠長なことは言っていられない。
空から爆弾が降ってきたり、海から波が押し寄せてくるなら、元気がなくても、走って逃げなきゃいけない。
そう考えると、元気がないなんて言っていられるのは、すごく平和な証拠だろう。
命の危機に瀕しているわけでもない。なんだかとっても小さなかわいらしい声に思えてくる。
スーパーでコシヒカリの玄米を、2kg1000円で買った。毎日米をモリモリ食べている。
病み上がりで鏡を見たとき、身体が瘦せ細って、これじゃだめだと思った。
身体に無駄な脂肪がついて、太っている状態も、いいとは言えない。
パッと見で、いいかどうかは、本能的に分かる。本能的にいいことをする。
身体と心は繋がっている。心が元気になりたかったら、まずは身体を大切にすることを心掛ける。
座るよりも立つこと。歩くこと。ちゃんと運動すること。食べ過ぎないこと。でもちゃんと食べること。
空を見上げること。太陽の陽を浴びること。人によく笑うこと。掃除をすること。今いる場所を綺麗にすること。
今をただ元気でいることは、本当に小さな小さなミッションかもしれないけれど、それはとても大事なミッションだと私は思う。
だからまずは、自分を元気に。周りよりも、世界よりも、まずは、自分を元気に。心配しなくても、世界は後からついてくる。
秋田の海、いい波してた!
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