報せを待ちながら、時間に耐える日々が続く。命を燃やせる感覚が得られない時は、ひたすら「どうしたら死ねるか」を問い続けるか、いつも空振りするような感覚しか得られない。
「葉隠」の著者である山本常朝は、42歳のとき鍋島光茂の死に殉じようとしたが、光茂自身の殉死禁止令によって死を阻まれた。常朝は出家し、61歳で畳の上で死んだ。三島由紀夫は「葉隠入門」でこう書いている。
行動家の最大の不幸は、そのあやまちのない一点を添加したあとも、死ななかった場合である。
「毎朝、毎夕、改めては死に、改めては死に、常住死身となる。」これは常朝の著した葉隠の一句だ。
毎朝、入念に死身となり、死を常に覚悟して生きていたものの、遂には死ななった場合の虚しさというのは、私には想像が及ばない。死に場所を失った武士は、生きる場所を失ったも同然だったのではないか。生きる場所がなくとも、主の命令によって生きなければならない。この苦しみが葉隠に垣間見える虚無主義の正体だった。
死ぬことも、生きることもできない状態は、生と死の狭間に閉じ込められたような感覚だろう。
現代の我々が人生に時たま抱く大きな虚無感は、ここに通ずると感じる。閉ざされた時間を耐え忍ぶには、時間というものがあまりにも静寂で重すぎるのだ。
表面化していないだけで、この虚無感に敷かれて生きている現代人はたくさんいると感じる。「退職鬱」なんてのはまさにそれじゃないか。定年で退職した人間が、人生の生きがいが分からなくなったといって不調に陥ることは少なくない。これは生きることも死ぬこともできない人生の虚無が、煩雑な生活が無くなったことで浮き彫りになったのだと思う。
時代を語る言葉に「充実感」という言葉がある。この言葉はいつから使われるようになったのだろうか。充実した一日、充実した老後、充実した人生、ここから派生して「リア充」という言葉まで生まれた。充実、充実、充実、、、、、気が狂いそうになる。
今日当たり前のように使われる「充実感」は、虚無を前提とした言葉だ。生と死の狭間に生まれた虚無に対抗すべく、人が生き方の指標として持たざるを得なかった武器なのだ。だから今、虚無を埋め尽くすための何かが失われると、鬱になる人間はたくさん生まれると思う。(最も今では、それを誤魔化すための手段もごまんとあるが。)
武士が「今日は充実した1日だった」なんて言葉を使う姿が全く想像できないのは、武士にはただ生と死があるだけだったからだ。
ここに時代背景はあるが、私は「充実」に価値を感じていない。充実こそ人生の向かうべき方向とする風潮にも飲まれたくない。死にきれない日々を覆う虚無感について考えながら、この虚無感すらも自分の一部として抱いてやろうという心持でいる。
今日は色んな問いが反芻しているので、最後に覚書をしておきたい。戦いはまだまだ続く。
問いの覚書
「自分と神だけの戦いとは」
「壁が大きさと自分の大きさの関係?」
「自己犠牲の愛の美しさ」
「見せびらかす幸せと、同情を誘う不幸」
「貧しさの中にある魂の崇高さ」
「誰にも理解されない覚悟の奥にある本当の孤独」
「死にきれない日々を覆う虚無感」
精神修養 #45 (2h/98h)
朝5時。気温4度。先日、瞑想を投げ出して寝袋に舞い戻った日の類似条件下での瞑想となった。起きたばかりは、肉体優位なのか、呼吸に集中していてもすぐに眠くなる。寒気と睡魔のダブルパンチに耐えるのは修行らしい。
睡魔、寒さ、痛み、誘惑。今朝も昨晩につづき、瞑想というより自分との戦いだった。「死ぬ方を選べば後悔しない」という考え方だけに支えられ、瞑想をやりきる。
[夕の瞑想]今の私は、本当に死ねる覚悟がない。これは私が28年間、物質主義で生きたきた癖が身体に染みこんでいるからだろう。武士にように切腹できるかと問われれば、私にはできない。
死に近づくことはできても、本当に死ぬことができないとなると、輝かしい生の頂点も見ることが出来ないのかもしれない。山頂近くまでは登れたとしても、山頂に到達できない登山のようなものかもしれない。
命を投げ捨ててまで何かのために死ねるような生き方に憧れながらも、死ねるように生きるとは何かという問いが絶えない。
1つの思考に反応することで、別の思考が生まれる。肉体から発せられる無意識の思考は、損得がベースになっており、生きることに片付くことが多い。したがって運命を切り開きたいと思うなら、魂の力によって肉体を超えていかなければならない。肉体の虜になっていれば、動物のような生き方しかできなくなる。
幸せを誇示することは品位欠けるような印象を覚えるが、一方で不幸な自分を演じ同情を誘うことも品の無い行為だと感じる。美しいと感じる人間は、自分のことについて口を慎み、ただ静かな行いだけがあるような、そんな印象を受ける。
そろそろ世界が虚無に戻れば良いと思う。
苦しみも悲しみも無い世界。
楽しみとか喜びはその綻びでであり基本苦しみと悲しみが連続するのが現実社会だ。
虚無は素敵だ。