運命は味方にも敵にもなる[376/1000]

雨が降ってくれてよかった。淋しさを洗い流す雨である。

いよいよ仕事をやめる日となった。苦しみが多くあるほど歓びは膨れ上がる。半端者の私は仕事をまっとうにやめた経験が少ない。大学生のころからバイトは投げ出してきたし、教員も中途半端にやめてきた。正当な手続きを踏まないことは、正当な対価を得られないことを意味する。私は苦しんだ裏側ですくすくと育った歓びを収穫することなく生きてきた。しかし、真っ当な人間であれば、苦労の裏側に咲かせた花こそ、人生のもっとも幸福な味であるとご存じであろう。私もそれを知りながら、いっぽうで目先の苦痛に耐えることの厳しさに打ちのめされてきたのである。

 

今日、仕事をやめたことは歓びとなった。関係者各位にありのままの心情をつづった手紙を書いていると、いよいよ終わるのだなぁと、感慨深くなる。この感慨深さが歓びの種となり、失うことの淋しさになると実感しているのである。ひとつ、正当に物事を終えると、物事の向こう側に行けたようで、少しはマシな人間になったような気になるのである。こういうものを自信というのかもしれないが、いかんせん、私はもとより、積み上げられたものがないような人間なので、まだまだ憧れる武士の魂には遠く及ばない人間である。相変わらず社会は好きではないであるが、少しは社会の耐性ができたと思えるくらいである。

 

私にとって先はまだ果てしなく、森に家を建てるといっても、それから先どこに向かっていくのかまったく分からないのである。7月からは精神的にも、物理的にも、社会から離れて一人となるが、その孤独や淋しさに耐えられるのかさえ、今の私には想像もできないのである。太陽を拝み、月を友とし、森の精霊や、書物に宿る人間の魂に触れながら、ほそぼそとやっていこうと考えているのである。

せっかく人生をわがままに使わせてもらうのだから、運命に挫けることなく、すべての物事にぶつかっていきたいと思うのである。森の北にある畑から流れてくる臭いは、セロリの臭いだったのである。農家の不手際で臭いが生まれているのなら、なんとか相談を持ち込む余地があったが、セロリの臭いとなれば文句は言えないのである。ささいな問題であるが、すべては因果応報のもと、私の責任であると自覚したいのである。

 

さて、今日は雨が降っている。雨が降ってくれてよかったのである。すべての淋しさを洗い流してくれるような雨である。心の持ちよう次第で、運命は味方にも敵にもなるのである。

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