百姓という言葉には庶民ながらも立派に生きる人間としての矜持がある。[985/1000]

友人の新聞記者が、社内のワープロでうっかり「百姓」と入力しようとしたところ、「次の言葉に言い換えなさい」と警告が出て、農家、農業者、農業経営者、農民などの言葉が例示されると言う。事態はここまで来ているのである。

宇根豊「国民のための百姓学」

百姓という言葉には、庶民ながらも立派に生きる、人間としての矜持がある。歴史のなかで流された、血と汗と涙の昇華である。昨年から畑で働いていると「就農」という言葉をよく耳にする。農に縁のなかった人間が、新しく農家として開業することを言うが(厳密には雇用就農といって、雇われとして働く形もある)、私はこの言葉がどうも好きになれない。為政者がキャンペーンとして打ち出すための作意が見え透いているからであろう。都会を出しにしながら、自然豊かで健康的な田舎暮らしをしようというヒューマニズムに乗っかった言葉にも聞こえる。

就農で農業従事者になることはあっても百姓になることない。思想が言葉を書き換えている。人間の矜持に満ち満ちた百姓という言葉は、近代合理主義によって陰に追いやられた。悔しいが、夏目漱石の「草枕」や島崎藤村の「夜明け前」を読んでいても、分からない言葉ばかりである。きりがないが、辞書で調べて本に書き込む。同じ日本人であるはずなのに、平成生まれの私には西洋文学のほうが読みやすい。日本人の矜持の詰まった昔の言葉は使われぬ、思想とカタカナで覆われる時代で育った。

とはいえ、日本人は日本人だ。その自覚を肚の底から紡ぎ出して、ほんの小さな心の隙間から入り込もうとする絶望を、心の外に追い出して生きるだけである。さあ、踏ん張ろう。

 

2025.3.2