やれるだけやってもダメ人間にしかならないのならその時は諦めよう[591/1000]

沢木耕太郎さんの「深夜特急」全6巻を読み終えた。凡庸な終わり方を想像していた私は度肝を抜かれ、思わず声を漏らしてしまった。

 

インドのデリーから最終目的地であるロンドンまで、1年以上かけてバスで旅するうちに、沢木さんは”まっとうな生き方”から乖離していく旅人としての焦燥を抱えていた。定められた仕事がなく、地に着いた生活を持たない旅人は、何にも縛られない宙に浮いた感覚に不安を見出していく。地に根を伸ばせない植物は、空高く伸びることもできない。根無し草であることは、まっとうな生き方を失うことであって、人間そんなことでもいいものかと怖れが生じるのである。

 

私は今の自分の今の状況と、沢木さんの旅を照合させていた。”まっとうな生活”から乖離してしまったとき、沢木さんであれば果たしてどう状況を打破するのか。”まっとうな生き方”との折り合いをどうつけていくのか。深夜特急を読み進めて行くうちに、私の緊張はこの一点に向けて引き絞られていった。そして、物語のエンディングにはこの引き絞られた矢が空に放たれるはずだった。

 

だが冒頭にも書いた通り、私の凡庸な想像とはまったく違うラストが控えていた。ロンドンに辿り着いた感動とともに、何か大きな悟りを得て、日常へと帰っていくのだろうという典型的な想像を、いい意味で裏切られたのである。

実際はこうであった。

 

私はこの旅の終わりの場所をロンドンの中央郵便局と決め込んでいた。仮に他の場所で旅の本文は終わっているにしても、このロンドンの中央郵便局で電報を打たないかぎり、最後のピリオドは打てないと思い込んでいた。だが、その中央郵便局は電報など受け付けていなかった。

(中略)

クックック、と笑いが洩れそうになる。私はそれを抑えるのに苦労した。これからまだ旅を続けたってかまわないのだ。旅を終えようと思ったところ、そこが私の中央郵便局なのだ。

(中略)

私はそこを出ると、近くの公衆電話のボックスに入った。そして、受話器を取り上げると、コインも入れずにダイヤルを廻した。

《9273-80824258-7308》

それはダイヤル盤についているアルファベットでは、こうなるはずだった。W、A、R、E―T、O、U、C、H、A、K、U―S、E、Z、U。

《ワレ到着セズ》と。

 

結局、答えは得られずじまいだった。引き絞られた緊張の矢は、想像していた斜め上に放たれていった。私は、知らず知らずのうちに答えを求めてしまっていたことを自覚し、己を恥じた。

旅を終えようと思ったところに、”まっとうな生活”は自ずと始まる。そもそも、それが”まっとう”かどうかであるかなど、自分自身が判断を下すことではない。まっとうな生活とは、それ自身を目的とするものではなく、終わりなき旅を追い求め続けた足もとに、自然と築き上げられている結果の集積にすぎないのだ。まっとうかどうかは、社会が判断することである。それは人間を立派かどうか判断することと似ている。

己自身にできることは、どんな結果になろうと、結果のすべてを受け入れることだけだ。やれるだけのことをやって、それでもダメな人間にしかならなかったときは、もう諦めよう。それでいいのかもしれない。

 

2024.2.1

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