同情とは、同じ十字架を背負うことだ。同じ十字架を背負うとは、俺もお前と同じ苦しみを背負う人間だと認め、肉体を一にすることだ。肉体が一になるからこそ、魂のレベルで繋がり、頑張ろうという勇気が湧いてくるのだ。同じ痛みを味わった人間同士の絆はだから強い。苦しみは、無力な嘆きも生むが、力に転ずれば反骨心として奮起する起爆材となる。
つまり同情は、無力の嘆きを力の反骨へと変えるためにある。無力とは理解されない苦しみの自傷行為だ。だが、苦しみは誰かに理解されれば、こんなことで挫けてちゃダメだと不思議と勇気が湧いてきて、力の反骨に変わるのだ。
運命をともにする人間の絆は、だからこそ強力だ。
彼らは二人の男の子にまとわりつかれながら、ひとつの嫌な顔をしていなかった。男の子たちは垢にまみれた手を差し出して金をせびっている。彼に金が、それも恵んでやれるような金があるはずがなかった。
(中略)
彼は何のためらいもなく、掌の上で仕切った二つずつの硬貨を、一組はひとりの男の子に、一組はもうひとりの男の子に、そして残りの一組は自分に、と身振りで説明した。子供たちはわかったというように大きく頷くと、嬉しそうにリアル貨を二つずつ摘み上げた。それを見て、彼もまた嬉しそうに二リアルを一方の手に取った。
沢木耕太郎「深夜特急4」
立場のちがう人間が同じ十字架を背負うことは簡単ではない。例えば、金のある人間は、金のない人間に金を与えるも、物乞いの子供の苦しみを同じにすることはできない。高い所から低い所に「与える」のである。偽善も善と言うように、金も与えれば現実に効力を発し、救われる子供もいよう。それでいいのかもしれないが、この沢木幸太郎さんの手記に登場する貧しい青年の振る舞いには、それ以上のものを感じる。
この貧しい青年に、私はイエスの面影を見たような衝撃を受けた。貧しい青年の行いは、金を与えながらも、分かち合ったのだ。自分も君たちと同じ金のない境遇なのだよ、と子供たちに伝え、そのなけなしの金を三等分することで、同じ十字架を背負ったのである。物質を与えながら、物質以上のものと繋がった。物質に与するでも、精神に与するでもなく、中庸を見出した。
貧しい人々は、無益な愛ではなく有益なパンを求めているというのが、イエスに反抗したユダの考えだった。「同情するなら金をくれ」だ。これも見方によって正しい。だがイエスは、現実に無益であろうと生きる希望となる愛を説き続けた。魂の力そのものを鼓舞しつづけた。この貧しい青年の振る舞いは、ただ金をやるでもやらないでもなく、子供たちに愛の救いを与えたように思う。
われわれ一同は、肉体を負った悲哀という運命をともにしている。これをいつも分かち合っていたいと願う。どんな人間とも分け隔たりなく、これだけは分かち合えるのだ。
2024.1.21
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