素朴な感覚を愛されよ[578/1000]

ホッ、と息をついた、まさにその瞬間、激しい衝撃を受けた。

バスの運転手がまた例のレースをやり、前を走るバスに並び、さらに追い抜こうとして、大きく廻り込んだ直後のことである。

ガーンという音と、白い乗用車が路肩に飛び出したのはわかったが、こちらのバスはそのままの勢いで進んでしまう。追い抜いたバスの前に乗用車がいて、それにぶつかったのだろう。しかし、このバス、少しも停まる気配を見せない。狐につままれたような気持ちでいると、一キロくらい走ってから速度をいくらか落とし、運転手が振り返り、

「どんなもんじゃろ」

といったようなことを言う。すると最後部の座席にいたオッサンが背後を見やり、

「なんだかわからんが、後から車は来るぞな。動いとるんじゃ平気だわな」

てなことを言い返す。動いているのは別の車かもしれないのに、車内の人々はなにか深く頷いて、口々に叫ぶ。

「チャロ、チャロ!」

つまり、さあ行こう、行っちまえ、と言っているらしいのだ。私は唖然とし、次に腹の底から笑いたくなってきた。運転手といわず乗客といわず、交通事故に関するこのいい加減さはなかなかのものだった。

沢木耕太郎「深夜特急4」

 

上に紹介したのは、沢木耕太郎さんがパキスタンで遭遇したスリリングなバスの体験記である。沢木さんが旅をしたのは今から半世紀も前のことなので、2024年の今も、バスが道のど真ん中を全速力で疾走し、対向車と、どちらが道の中央を譲るかチキンレースを繰り広げているかは分からない。

制限速度も守らない。交通ルールも守らない。交通事故も気にかけない。定員もあってないようなものだ。オンボロのバスで乗用車を次々と抜き去り、故障すれば乗客全員で直そうと立ち向かう。こうした混沌とも無秩序ともいえる数々は、日本人の感覚であれば、にわかに信じられないだろう。

われわれにとっての長距離バスは、冷暖房とリクライニングとカーテンまで備えつけられた、個人の空間と安全が保障された清潔なバスである。

 

私は彼らの感覚に懐かしさをおぼえる。読んでいると「そうだとも、そうだとも。」と頷けるのだ。

善悪はいったんわきにどけておいて、車を手にすれば、ぶっ飛ばしたいと思うのが純粋な好奇心である。前に走る車を次々と抜き去り、道のど真ん中を走り、レースをしたいと思ってしまうのが、男のなかに棲みつく子供ではなかろうか。

 

私は彼らが健気だと感じる。「素朴な感覚」という言葉を当てはめてみようと思う。今の日本の感覚は、洗練されすぎている。バスに乗れば、目的地まで安全が保障されると半ば信じているが、バスの乗客一同と、死ぬかもしれない生命の冒険を伴にしているのが真実である。

権利と保障を悪だとは断言しない。だが、洗練されすぎた感覚が当たり前になりすぎれば、埋もれていく野性がある。「そうだとも、そうだとも。」と頷きながら涙を流せる(もしくは笑える)体験に、生命の本当があるように思うのだ。

 

誤解のないように、今日の悪質な運転を肯定しているわけではない。むしろ逆である。悪質にあるのは「無力」であり、無邪気さでも素朴さでもない。洗練されすぎた現実に力を失い、無力になった結果、顔の見えない車において陰湿な犯行に及ぶのである。

素朴な感覚とは「力」である。さすがに、沢木さんの体験したような無鉄砲なバスに巻き込まれれば、勘弁してくれよと天に泣きつきたくなるかもしれないが、「力」の上に死ぬのなら、無駄死にだったと悔いることも、悔やまれることもないと思うのだ。力こそ、創造主たる神が望むことだと信じるからだ。

歴史はいつも、力の上にある。

 

2024.1.19

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