「神の愛」とか「愛の神」を口で語るのはやさしいのだ。苛酷な現実に生きる人間は神の愛よりもはるかに神のつめたい沈黙しか感じぬ。苛酷な現実から愛の神を信じるよりは怒りの神、罰する神を考えるほうがたやすい。だから旧約のなかで時として神の愛が語られていても、人々の心には怖れの対象となる神のイメージが強かったのだ。心貧しき人や泣く人に現実では何の酬いがないように見える時、神の愛をどのようにしてつかめるというのか。
イエスは勿論この矛盾に気づいておられた。彼の心には神の愛にたいする信仰が燃えていたが、しかしそれはこの矛盾を無視されておられたわけではなかった。いや、むしろ、イエスの生涯をつらぬく最も大きなテーマは、愛の神の存在をどのように証明し、神の愛をどのように知らせるかにかかっていたのである。
「イエスの生涯」遠藤周作
さあ、己はどんな神を証明しよう。怒りの神か。悲しみの神か。歓びの神か。笑いの神か。愛の神か。
われわれ人間は「体現者」である。体現者とは、無と有を繋ぐ存在、物質と非物質を繋ぐ存在として、己の潜在的な信仰のうちに「生」を現象化させ、神の意志を体現しつづけている。つまり、すべては自分次第で、神を証明しているのである。
体現者は、力の存在だ。断じて被害者ではない。被害者は無力の存在だ。愛に生きたいと願うのなら、愛されない苦しみに被害者の嘆きをこぼすのではない。愛されない嘆きをこぼすのなら、嘆きは「冷酷な世界」を体現するだろう。愛に生きたいと願うのなら、愛の神を信じる力を放棄してはならない。イエスの生き様を感じる度に、こうした人間の雄々しい態度を思い出すのだ。
イエスは「怒りの世界」のうちに愛が存在することを証明しようと努力した。信仰とは、己が信じたいものを信じ、信じたいことを困窮のなかにおいて、信じつづけることだ。怒りの世界の厳格のなかに、愛があるのだと証明をつづけることだ。これが、信仰である。信仰は、主体的な力だ。この世界を「愛の神」が創造したと信じる人間は、冷酷な世界に不貞腐れることなく、愛があることを信じ、戦いつづけることだ。己の信仰を守り通すことだ。
創造主である、デミウルゴスはなぜ現象界をつくったか?ここに対する問いは、いまだ答えがない。合理的な考えも、科学的な考えも及ばない、自分の信じたいように信じる自由がある。私はここに人間のロマンを感じる。このロマンが、人智を超えた救いであるように感じる。さあ、己はどんな神を証明しようというのだ。
愛に生きることを願うのなら、まずは不貞腐れる自分を赦し、力を取り戻すことだ。繰り返すが、被害者とは無力の原理であるが、体現者とは力の原理だ。力を賛美せよ。己の力を、無力さに埋没させるな。己自身が体現者となる道は、まずはいちばん身近な存在である自分自身に働きかけることだ。働きかけることが力である。まずは、己を残酷な嘆きから、救ってみるがよい。
2024.1.13
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