怒りの神が支配する、暗澹の世界のなかにいて、はじめて人間を赦したキリストが、生誕したのは2024年前。
無責任な現実の脱落者として、生活を捨てたイエスは、ユダの荒野を孤独に歩いた。砂漠や死海は、現実の苦悩を象徴した。だが、緑豊かな草木が柔らかな風に揺られる、彩のあるガリラヤ湖畔を目にしたとき、神が世界をつくったのは、決して人間を怒りで裁くためだけではないと信じたのだ。
優しい風景には、世界を創造した神の愛が溢れる。苦しい現実を忘れ、赦される気持ちになったのだろう。私も森で隠遁生活をしていたころ、早朝、隙間から小屋に迷い込んできた小鳥の無垢な目を見て、想像主のやさしさに、幸福な気持ちになったことがあった。
認識だ。災害のように、人間に過酷な自然現象もあれば、空に架かる虹のように優しい現象もある。暗く染まりそうになる認識のなかに、光を灯す力を持ちたいと願う。
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地震と津波とともに、日本人は生きてきた。
われわれの祖先は、地震が起きたとき、どう考えて生きてきただろう。「米粒を残せば目が潰れる」、「食べ物を粗末にしたらバチが当たる」というように、日ごろの行いのバチが当たったと考えたのだろうか。
信仰とは、世界と一つになることだと思う。
自然から恵みを得たものを、有難く受け取り、自然に還してゆく。百姓は神と大地の仲介人として、田畑に汗水を垂らした。食も労働も生活も、すべて繋がっている。信仰は、人間の暮らしのすべてを、一つに束ねるものである。
信仰の薄れた今日では、子供の好き嫌いまでもが個性と勘違いされ、食べ物を平気で残すことを、先進的で聡明な教育だと勘違いされる話も聞くが、そんなことは、当然間違っている。
2024年元旦に、石川の能登半島で震度7の地震が起きた。この30年で、阪神淡路大震災、新潟中越地震、東日本大震災、熊本地震、能登半島地震と、大きな地震がつづいている。罪のない人たちが、大勢死んでいる。だが、地震を心から憎む日本人に、私は会ったことがない。身内の不幸を悲しむ人間はいても、地震に憎しみをぶつけ、大地に反抗しようとする人間に会ったことがない。地震を受け入れて、何度も戦っている。
哀しいけれど、ここに日本人の強さ、高邁な精神の根源を感じる。日本人の信仰。自然と一つになりながら、悲しみながらも、戦う力を感じる。
「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌 となりて 苔のむすまで」
2024.1.12
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