感情を整列させなければ、本は読めない。軍隊のように美しく感情を整列させ、号令一つで一斉に行進をするには、日頃の鍛錬がいる。
また、文章に人柄がにじみ出るのは、文章を書くにも、感情を整列させる必要があるからだ。
島崎藤村の破戒を読んでいると、綺麗に整列した感情と、感情を整列させる、実直で誠実な人柄が伝わってくる。これは、三島由紀夫の文学を読むときに抱く感覚と同じである。表現の一つひとつに投げやりなところは一切なく、細部の細部まで、綺麗に整列しているのだ。
彼らと比較しようものなら、失礼と言われるかもしれないが、隠遁中、毎日のように読んだ、ランボオ「地獄の季節」は、放埓な性質を持っているように感じる。武士道的な精神ではなく、デカダンス、耽美主義に寄っているからそういう印象を受けるのかもしれない。
「魔の山」に登場する”死の淫蕩”というフレーズを思い出す。死に身を委ね、無秩序に人生を遍歴したところに耽美主義は生れるのだろうか。そして、青年を道徳的に導く、教養小説といわれるものは、大体、感情を美しく整列させた前者のような文学である。特に、日本の文学には、武士道や座禅のような研ぎ澄まされた精神性を感じられる。
ランボオのような、耽美主義に惹かれるのは、堕落の孤独と己の弱さを、死の放埓さのなかで美に救済したいからであるし、武士道の精神性に救いを求めようとするのも、堕ちることの苦しさに耐えることができないからである。
弱さを弱さのまま抱きしめたくなるのが、放埓と美であり、恥辱のうちにいても、己を力強く奮い立たせようとするのが武士道である。なんだかこれらの対比は、ストア派とエピクロス派に似ているような気がするのだけれど、どうだろう?
嵐のなか、俺は平気だと踏ん張るストア派、嵐に濡れてもまあいいかと捉えるエピクロス派。
武士道に憧れながら、森に隠遁する矛盾。1000日つづけて物を書くという形式を課しながら、その内容は放埓を極めるこの手記。誰にもこうした矛盾を抱えていそうなものだけれど、これはどう考えたらいいだろう?
ただ、どちらにしても、感情は起立させておくのがよさそうだ。ビシッと軍隊のように整列させることが美しいことは間違いないし、いっぽう、放埓に遊ばせることもあるだろう。本を読むのなら、書き手を同じ、感情の形式を取らねばならない。
感情が無力になり、座ってしまうこと。立ち上がれなくなること。エネルギーを賛美するかぎり、これだけは避けたいと思うのだ。
2023.12.30
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