なんということだ。「ありがとう」と言葉にすれば、羞恥熱で焦げ死んでしまいそうだ。おおげさだろうに思われるだろう。だが俺はこの言葉を生涯禁句にしたいとさえ思うほど、「ありがとう」と言ってしまったことの羞恥熱に、悶え死にそうなのだ。
そもそも「ありがとう」とは、他人の好意に甘え、他人の好意を受け取ったときに生まれる言葉だ。多くを持つものが多くを持たぬものに、力のあるものが力のないものに、何かを与え、それを受け取ったときに生まれる言葉だ。他人の好意を受け取ることは、一見、道徳的なことのように思える。
とんでもない。恥知らずの行為だと、私はあえて言いたい。なぜなら、己の非力、無力を、無条件に認めることになるだけでなく、他人の好意を無償で受け取り、得をしようという卑しいエゴイズムを披露することになるからだ。得をしようと思ていなくとも、得をしてしまうことを許容していることが、恥ずべき卑しさなのだ。
加え、「ありがとう」の響きは、どうも男らしくはない。「すまない」とか「かたじけない」と言うほうが、よほど本当に思える。
「すまない」「かたじけない」
これこそ、不覚を取った男が発する言葉ではなかろうか。独立自尊のもとにおいては、誰かの力を借りることは「不覚」なのだ。つまり、助けてもらうことを恥じ、万が一、友に助けてもらうことがあれば、不覚をとって迷惑をかけたことを謝るべきなのだ。そして、「すまない」と言葉を発したからには、詫びを入れなければならない。これが、借りを返すことである。
映画でも漫画でも、善良な味方サイドが、悪役の命を救うという場面はよくある。高貴な悪役は、「ありがとう」などと言わない。大体は「助けてと頼んだ覚えはない」と憤怒し、それでも助けてもらった代えがたい事実を恥じ、何かしらの償いをするのだ。「借りは返した」そう悪役は言うと、踵を返して、夜の森に消えていく。こういう生き様は、まさに独立自尊の男である。
安易にもらうな。受け取るな。施されるな。そして、万が一、助けてもらったときは、女々しく「ありがとう」などと言葉にするのではなく、己の非力を恥じ、「すまない」「かたじけない」と言うのが男ではなかろうか。
そんなことを考える今日、不覚を取った俺は「ありがとう」を生涯禁句にしたいと、そんなことも考えてみたりする。無論、進歩と協調の社会においては、受け取らない人間がいれば、仕事も円滑に成り立たない。受け取ってありがとうと言えばいいのだと、教えられる。
だが、人間の清き精神、魂の誇りを思うなら、効率、合理のために少しは反抗してみたくなるのだ。働きもしない今の俺だ。せめてそれくらいは、人間の精神のために戦うことを己の義務と課してもよかろう。
不覚をとった。気を張り直そう。
2023.12.16
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