★「生」と「死」が生む中庸[531/1000]

連日の無秩序な、文章の数々をお赦し願いたい。私自身、いまだ、思想を固めている途上の人間、被教育側の人間である。恥ずかしながら、こうして考えを投稿させてもらっている立場である。

トーマスマンの「魔の山」に甚大な影響を受ける一方、魔の山が西洋の文明を扱う以上、キリスト教的であり、直にわれわれ日本人にとっての答えを導き出す前に、もう一段階、思考を挟む必要があると感じている。

試論も多く含むため、どうか精神的防御をしていただいた上で、読んでいただきたい。

 

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私の「死」への陶酔は、「生」の反動から生まれたものであった。今日、社会を覆うのは、紛れもなく生の衝動であり、生きることそのものが、自己目的となっている。幸福と健康があがめられる今の社会で、青年の死の衝動は、どこに解放されているのだろう。

50年前では、学生運動に青年の不満は爆発し、火炎瓶や角材などが武器として使われたほどに、無法地帯が日本にも登場した。私自身、五十年前に生きていたら、政治思想となんの関係もなく、己の死の衝動を解放する為だけに、参加した輩の一人になっていただろうと思う。

 

エネルギーの余剰が電脳空間に吸われる今日は、政治運動に発露するだけのガソリンがまかなえないように思われる。青年の衝動は満たされないまま、満たす力のないまま、生の享楽に吸われていき、無気力に陥っているのではあるまいか。

私は、己の死の衝動を、冒険的な旅として発露させていた。それでも満たしきれない衝動を、「死」への陶酔として抱くようになった。厭世的となり、自己破壊に向かったのだ。

死の衝動の目的とは、死ぬことであるから、死の輩下に加われば、悪意によって物事を観るようになる。そして「生」に満ち満ちた社会、死なせてくれない社会は、敵となる。

 

そんな私であったが、この隠遁生活で、ほんの少しだけ客観的でいられる今、「生」に固着した社会の偽善的空気と等しく、「死」に固着し悪意に身を委ねることも、淫蕩だったと思うのである。

中庸とはいかにも、幸福に好かれそうな言葉ではあるが、真にバランスの取れた人間は生死の中間に位置する。生の腐臭に身を包むこともなく、死の放埓に身を委ねることもなく、不安定の中を生ききるものではあるまいか。

 

時代の舞台が生に満ちる今は、戦時中と真逆だ。悪意に身を委ねる人間がいても、生に満ち満ちた社会の反動を己の力のみで制御し、中庸に生きられる人間などいるだろうか。無法はもちろん悪であるし、悪は当然、裁かれるけれども、衝動を殺して無気力となれば、それこそ生命的な悪である。生死の調和がもたらされるとき、真に健全な中庸が生まれると思うのだ。

 

2023.12.3

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