霊体はつねに肉体に縛られ、「現在」しか生きることができない。「過去」を生きていたようで、それは肉体にひもづけられた記憶の断片にすぎないのだ。記憶の断片をつなぎあわせて、自己の延長を「現在」演じている。演じている「私」とはいったい何者だろう。
「現在」は「過去」かもしれないし、「未来」かもしれない。霊体はつねに「現在」しか認識できないのだから、今が「現在」であるとどうして言えるだろう。地球は永遠に太陽をまわりつづける。一年をかけて太陽を一周し、永遠に回帰する。空間の変化こそ、時間の存在を証明する。しかし何度も言うが、霊体は「現在」しか存在しないのだ。それなのにどうして変化を証明できよう。
ニーチェの思想に永遠回帰がある。トーマスマンの「魔の山」でも時間の哲学が何度も登場する。この二冊は、時間の哲学も深めてくれる。隠遁期間中の、誰にも会わない奇妙な夢心地の感覚、時間も空間も超越した意識体が肉体によって捕らわれる感覚、そうして初めて「自分」という存在を認識し、「現在」を獲得する体験、これらのすべてが時間の哲学を深めてくれる。
私は今、生きることに対する、いっさいの焦燥感から解放されている。なぜならば、今というものに絶対の信頼を寄せ、「現在」こそ永遠であることが感覚として分かるからである。常に存在したものは「現在」しかなく、昨日とか明日とかいうものも、すべて「現在」と一つである。この超感覚は特異環境から生まれることだと認めよう。真っ暗な森の中、小さな一つの灯りで哲学をして、「現在」が永遠であることの感覚をつかんでいるにすぎない。
今の私は「私」というものに対する執着もほとんどない。私は「私」を私だと信じているが、超感覚が、これは肉体による幻想であると教えてくれる。「現在」が「過去」とも「未来」ともひとつである感覚は、たとえるのなら、重なった映画のフィルムである。広大な宇宙を背景に、映像フィルムが一つに重なり、今だと思っている「現在」は「未来」ともいえ「過去」ともいえる。「過去」「現在」「未来」が順番に整列しているとどうして言えよう。われわれは、今という断片しか持ちあわせておらず、この断片も広大な宇宙の中から、たまたま拾っただけのものにすぎないかもしれないのに。
この隠遁生活も、時が経てば、圧縮され、大部分はどこかに消えてしまう。山本定朝のいうように、人生とは夢であろう。楽しくて切ない夢。儚い夢。終わってしまう夢。終わっている夢。
2023.11.19
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