隠遁生活によって、毎日書物に浸かる日々をおくる中、私がひらすら問うていることは、「いかに死ぬか」であると思う。「思う」というのは、自分でも何を求めて書物を貪っているのか、確証が得られていない。ただ、歴史にしても、文学にしても哲学にしても、時代時代の世相の中で、人間がなぜ苦悩し、なぜ恋をして、なぜ死んでいったかという点に、私の関心が収斂していくのを、なんとなく観察し、「人間としての死」だけに魂は救われるという信念が、爛熟していくのは確かである。そして、現代ほど、「人間としての死」が難しい時代は、かつてあっただろうか、と思うのは、それだけ世が、死を倦厭する幸福に満ちているからである。
三島由紀夫が切腹したのは、泰平の世となって20年が経ったころだが、それから今日まで50年経つ間にも、世相はずいぶんと変わった。神が死んだときに建てられた墓を拝むどころか、墓の存在すらも忘れられており、電脳空間は、日常に湿潤し、人間のエネルギーを無尽蔵に吸い取っている。そうして、死の衝動は、生に反撃を与える力すらも、失っているというわけだ。かつての青年のように、政治運動の暴挙が起こる力もない。道徳は勝利し、世の中は幸福な善人で溢れかえるが、この音のない世界、重力のない世界にたえなければ、発狂せざるを得ない。
もっとも今日は、自殺のかわりに、電脳空間に身投げすることができる。しかし、ふと我にかえったとき、この重たい肉体が依然と生きつづけている事実に、静かな絶望を繰り返すのだ。
私は厭世観にさいなまれている。人間の存在そのものが肯定されない世の中が、苦しくてならない。そして、この世の中に順応するために道化を用いようとする己の卑劣さにも恥を覚えずにはいられない。私は道化のかわりに、人間らしいやり方で、世にぶつかる方法を模索している。人間としての死は、その先にある。
【書物の海 #20】ツァラトゥストラはこう言った, ニーチェ
あなたがたが体験できる最大のものは、何であろうか?
それは「大いなる軽蔑」の時である。あなたがたがあなたがたの幸福に対して嫌悪をおぼえ、同様に、あなたがたの理性にも、あなたがたの徳にも嘔吐をもよおす時である。
この本に出会えたことに、運命を感じている。「神は死んだ」という言葉で有名な著作であるが、まさに現代の必読書ではないか。19世紀末の時点で、神が死んだという宣言されていたのなら、現代は、神の墓標すら忘れられてしまったと、悲しくも言えるだろう。
どうして私は、ニーチェを道徳家だと思っていたのか。ただの哲学者でもない。サムライのように時代に一太刀をあびせ、盛大な返り血に染まっている。道徳家から「大いなる軽蔑」が説かれるはずがない。神による価値づけをはぎとられた在るがままの人間存在を問う。私は本著を読み進められることに、筆舌に尽くしがたい仕合せを感じている。
2023.10.23
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