自己救済と生命燃焼について②[297/1000]

「自己救済」「生命燃焼」「堕落美」という言葉を度々使っているけれど、正直なところ私自身も、これらの言葉を完全に理解しているわけではなく、明確な定義もない。

悪魔に奪われた魂を取り戻すことを、自己救済と言っているし、社会の惰性的な回転の中で、徐々に死んでいく生命を救い出すことを自己救済とも言う。だから自己救済は、回転の中の安定した生活や、幸せな生活にあるのではなく、回転の外にある生命の美しさと、生命の燃焼を要求する。回転の外に弾かれることは堕落を意味して、力なき生命の絶望に一度は打ちひしがれるものかもしれない。人によってはここで死にたくなる。私もそうだった。しかしこれは、生々しい生命を初めて実感できた証でもある。そういう意味で、堕落は生命の始まりと、生命の苦痛で、ここから蘇り、再び生命を回転にぶつけていく。弾かれたまま、社会から孤立して生きることもできるけれど、私は生命は、いずれ戦わなきゃならない宿命にあると思っている。

自己救済と生命燃焼について[296/1000]

 

なぜ社会の回転から弾き出されることが、堕落を意味するのか。それは、社会の回転そのものが、道徳だからである。命を大切にしなきゃいけないとか、感謝しなきゃいけないとか、人に迷惑をかけちゃいけないとか、勤勉で勤労でなくちゃならないとか、こういった道徳がぐるぐる回転して、社会は秩序を保っている。だから、回転から弾き出されることは、道徳が破られることを意味し、これはイコール堕落なのである。

所帯を持ち、仕事を持ち、家を持ち、立派に暮らすというのは、一昔前の道徳だった。寅さんが堕落しているのは、これらすべての道徳を破っているからだ。寅さんは、自分をダメ人間だと自覚している。周りの人間も皆、寅さんをダメ人間だと思っている。道徳の回転の中に身を修めることができない人間は、社会から見れば出来損ないである。これは、寅さんがどれだけ愛おしいとか、頑張ってるとか、そういう問題ではないのだ。どれだけ愛おしくても、頑張っていても、道徳の回転に倣うことができない人間は堕落した悪党にならざるをえない。だから悲哀があるのだ。我々日本人はそうした世間体の中で、社会との関係の中に身を修めてきた。

 

しかし、寅さんに大きな生命力を感じるのは、他でもない、道徳を破っているからである。道徳が破られたことで、自分はダメな人間だという恥の意識が生じて、この恥の意識が生命の苦痛となって生命を蘇らせる。道徳は守らなくちゃ立派な人間にはなれないけれど、道徳は破らなくちゃ生命は救い出せない。ここで問いが生まれる。自分は道徳を守るために生きているのか?自分はどのように死んでいきたいのか?

懐かしいね。おぼえてるかい。あのとき初めて親に反抗して、「親の言いつけを守る」という道徳を犯して、小さな悪党となったのだ。その後は当然叱られたけれど、あのとき初めて回転から飛び出し、罪の意識に苛まれながらも、自分の生命を救い出したのだ。褒められることではないのだ。ダメなことなんだ。しかし、それでも堕落の道を進まざるをえなかったのだ。

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