真の孤独とは神との対話である。[246/1000]

孤独とは何か。孤独とは、神との対話である。孤独とは、憧れの彼方にどこまでも伸びていくことである。

孤独とは何か。孤独とは、幸福を捨てることである。ただ独り生き、ただ独り死ぬことである。妻を捨て、子供を捨て、父母を捨て、愛する人を捨てることである。

孤独とは何か。孤独とは、不幸を厭わないことである。貧しくとも、家がなくとも、病になろうとも、真っすぐに歩むことである。

 

真の孤独は、血を流すように厳しい。一人が楽だなんていうのは孤独ではない。それは孤独を誤魔化しているにすぎない。自分を誤魔化し、自分を慰め、自分を甘やかし、自分で楽をしているにすぎない。真の孤独は、戦いである。終わりなき聖戦である。

真の孤独は、神との対話である。我と汝である。孤独は神への挑戦である。現世の価値を切り捨て、命のすべてを奉げる苦悩と呻吟が孤独である。不幸になることを厭わない覚悟を持ち、神に束縛され、服従し、献身する精神の修養である。

少しでも損得に縛られているかぎり、真の孤独は得られない。現世の楽に惑わされず、死ぬほど厳しく自己を律するから、垂直方向に高く、高く、伸びていき、真の孤独を生きた人間は孤高となる。

 

昨晩、中村元訳の「ブッタのことば」を読み返して、驚いた。言ってることが、キリストと同じではないか。キリストは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と言った。同じことをブッタも言っていた。

「妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。」

 

現世のすべて捨てなければ、孤高にはなれない。妻子や父母を大切に思わない人なんていない。人生において、最もかけがえのないものである。しかし、この上なく大切なものだからこそ、それを捨てるくらいの覚悟がなければ、魂は生きられない。孤独はそれほどの厳しいものだ。

私自身、初めてこの言葉に触れた時は、正直受け入れ難く、読まなかったことにして通り過ぎていたというのが本音である。自分に都合の良い文言だけを受け取り、寂しさを紛らわすための言葉として悪用していた。しかし、今はこの言葉が少し分かるようになった。親を捨てるなど、親不孝だと思っていたが、親を捨ててまで自己のすべてを運命に立ち向かわせることこそが、本当の親孝行なのだ。愛するからこそ、捨てなければならないこともある。

 

キリストもブッタも、友を捨てろとは言っていないことに注目する。ブッタは同著にて、このように言っている。

もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危機にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

しかしもしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

われらは実に朋友を得る幸を褒め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができれば、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

 

孤独の中に出会った友は得がたいと言っている。孤独は戦いである。つまりブッタの言う朋友は、戦友のようなものだと思う。血の味を分かち合い、身体を弾丸が貫いても、共に前に突き進んでいくような、そんな関係を言っているのだと思う。同じ痛みと、同じ血を味わうのだ。

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