呼吸を生活に取り入れたことで、毎日に輪郭が生まれて、輪郭が生まれたことで中心が生まれた。
自堕落だった私も、自分の中心に、堅い芯のような1つの点を感じているときは、背筋が伸びて、シャキッとする。
人間はスライムみたいだと感じる。縛るものが何もなければ、だらっと崩れ、生活はまとまりを失う。社会で働いているうちは、決まった時間に仕事に行くことが、1つの規則となり輪郭となっている。
私は24のときに教員を辞め、輪郭を失って以来、どれだけ必死に生きようも、どこまでも自分がばらばらであるような苦しさをずっと抱えていた。どれだけ頑張っても、何をしても、とにかくばらばらで、私はその原因が頑張り足らないからだと結論づけていた。
呼吸をすると、今日という1日に輪郭が生まれ、自分の中心を掴めるようになった。朝と夜が混在したような状態から、ちゃんと朝に日が昇って、ちゃんと夜に日が沈むような感じ。
私はばらばらな状態に苦しんだけど、がんじがらめに生きていれば、逆にばらばらになりたいという衝動を抱えると思う。
仕事のような生活の大部分を占める何かをやめるとき、今ある輪郭を失って、自分がばらばらになってしまう恐怖を抱く。
一度、ばらばらになって、自分でもう一度まとまっていく。そして今の自分に窮屈さを感じるようになれば、再びばらばらになりたくなるだろう。
そんな風に自分を壊わしては、何度も作り直していくのかな。
精神修養 #5 (2.5h/22h)
水の流れる音の上に、セミが1匹鳴いている。9月も下旬。孤独ではなかろうか。孤独だろうと命尽きるその瞬間まで鳴きつづけるのかな。
呼吸は、吸って吐いて、吸って、吐いてを繰り返している。それと一緒に、肩が持ち上がり、腹が膨み、身体が前後に揺れる。呼吸を起点に身体全身が連携して、リズムが生まれる。
ただそのままの呼吸に気づいている時間は、とても静か。
以前は、4秒間息を吸って、4秒間止めて、8秒かけて息を吐くという呼吸法みたいなことをしていたこともあった。
しかし、癒しを求める瞑想は、生の衝動が強すぎて、リラックスできたようでも、根本では生の執着にしがみついたままであるような、窮屈さを感じていた。
連続しているような呼吸も、吸った後と、吐いた後の一瞬に、間がある。切り替わる瞬間がある。生と死が入れ替わるこの間に、何かしらの意味がある気がする。
夕の瞑想。時間も遅く、身体も疲れていたので、眠くなるだろうと思ったが、精神が多少鍛えられたのか、意識ははっきりしていた。
・・・と思いきや、終盤は再び睡魔に襲われた。昨日は10分を残して耐え切れず姿勢を崩してしまったので、今日こそは絶対に負けんぞ!と、もう瞑想といえるのかは分からないが、ただ気合でもがいていた。
肉体を甘やかせば、疲れが取れたような気になるけれど、反応しているときは、裏で別のストレスになっていることが多い。
心地良く反応に浸る時間は、気持ちがいい一方で、自分の主導権を失われている気持ち悪さがある。(自分を縛り過ぎているときは、自分をあえて、ばらばらにすることで、中和をはかっているのかもしれない)
読書の秋。本が読みたいので、本を読むことについて考えたい。
最近は、人にすすめられた本や、生と死の衝動についてテーマを持ったことで、本を読みたい気持ちが強くなっている。
私は読書家ではないが、自分がテーマする本に出会ったときや、知りたいことがあるとき、もしくはなんとなく気分が乗ったときくらいは、それなりに熱を入れて読んできた。
しかし、本当に本を愛している人は、呼吸のように本が生活の中に溶け込んでいて、今の私はどちらかというと、生活の中心に別のものがあって、本を読むことが端から追い出されてしまっているような状態にある。
だから本を読もう読もうと思っても、後回しになって、何とかしなきゃと思いながらもいつまでたっても読めず、もどかしさを抱えていた。
- 「読書を欲する者は閑暇を見出すことに賢明でなければならぬと共に、規則的に読書するということを忘れてはならない。」
- 「読書にも勇気が必要である。ひとは先ず始めなければならぬ。」
- 「読書は一種の技術である。」
三木清「如何に読書すべきか」
読書にも勇気が必要、読書は技術という言葉は今の自分にとても響く。
最近は瞑想をしながら、五感に反応する形で行うことのできない行い、つまり意志を要する行いの大半は「技術」なんじゃないかと思うようになった。
部活が技術の習得を志すことは分かりやすいけど、勉強も技術で、落ちてるゴミを拾うことも、自分から人に挨拶することも技術。
フロムは、愛することも技術だと言っている。だから気分のままにやってるようでは、いつまでたっても本を読むことができないのだと知った。
愛は技術だろうか。技術だとしたら、知力と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえに立っている。しかし、今日の人びとの大半は、後者のほうを信じているにちがいない。だからといって、人びとが愛を軽く見ているというわけではない。それどころか、誰もが愛に飢えている。楽しい、あるいは悲しいラブ・ストーリーを描いた数え切れないほどの映画を観、愛をうたった流行歌に聞き入っている。ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。
技術の習練には 規律 が必要である。規律正しくやらなければ、どんなことでも絶対に上達しない。「気分が乗っている」ときにだけやるのでは、楽しい趣味にはなりうるかもしれないが、そんなやり方では絶対にその技術を習得することはできない。
エーリッヒ・フロム. 愛するということ
毎日が練習で、毎日が試合だと感じる。
技術の習得を志すならば、今日は練習で、どこに向かって練習をするかといえば、今日をよく生きるためで、つまり今日こそが試合である。
練習相手も、試合相手も、自分。今日は明日もずっとずっと死ぬまで、自分がよき練習相手で、よき試合のライバルだ。
そう思うと、人生に厳しさを感じるけど、ここには切磋琢磨できるライバルがいて、戦友がいると思えば、勇気もわいてくる。
コイツと闘い続けていたら、そのうち一緒に焚火でも囲いながら、笑って酒を飲める中になっていくんじゃないかな。
コメントを残す