悪魔の誘惑に自分の堕落を疑いなく肯定すれば、当然苦しさはない。その代わり魂は奪われ、動物化の一途をたどる。
悪魔と戦い、苦悩し、毒を食らい尽くせば、人間は強くなる。最初は必ず苦しい。しかし、少しずつ食らい尽くすうちに、小さな悪魔にはひるまなくなる。https://t.co/2UeRT2oQSr— 内田知弥 (@tomtombread) March 5, 2023
悪魔はいつも人間から魂を奪おうとする。私自身、何度も悪魔に魂を奪われ、何度も生きる気力を失った。悪魔に魂を奪われると、物質主義に陥る。物質主義の慣れ果ては、虚無である。人間は悪魔から魂を奪われたとき、欲望を満たすだけの動物的な生き方となる。永遠を失った人間は、現世の虚無に閉じ込められ、肉体の死に怯えながら生き、死んでいく。
そして今回もまた、悪魔は俺の魂を奪おうとする。だが、今はお前の存在を捉えている。優しい顔をして近づき、美人と甘言と誘惑で、俺を欺き、堕落させようとすることを知っている。だからもうお前に魂を奪われたりはしない!
ああ苦しい。悪魔と対峙するとき、魂を死守する。この苦しみを肯定しようとするのが、今の世の中だ。「頑張らなくていい。」「そのままで大丈夫。」「自分を大切に。」こういった言葉そのものが、悪魔の回し者に見えて仕方がない。戦うことを諦めて、自分の魂を悪魔に手放すことは、確かに楽だ。欲望のままに生きることが肯定されれば、救われた気持ちになる。だが、悪魔に魂をやってしまえば、その先にあるのは虚無だけだぞ?優しい言葉をかけつづける人間(悪魔)は、虚無の責任を取ってやくれない。いや、それどころか、虚無の苦しみにつけこむように、「生きているだけで価値がある」「すべての命は尊い」と立派な顔をして追い打ちをかけてくる。しかし、虚無の道をどれだけ肯定しても、やはり虚無しかないなのだ。魂を奪われ、人間の永遠を失えば、生は現世に堕ち、すべての欲望を肯定し、虚無を誤魔化して生きるしかできなくなるのだ。
すべては自業自得である。かつて私は、こうした甘言に救いを求めて、悪魔に一方的な侵略を許し、身を滅ぼした。智慧のある人間が傍にいたら、厳しく悪魔を追い出しただろう。ネットは悪魔だらけである。なぜならば、大衆の前に現れるためには、悪魔の甘言を用い、大衆にとって都合の良い言葉を並べて、大衆に好かれる必要があるからだ。甘言を発する人間に悪意がないことは知っている。私もかつて悪魔的な記事を書いた。自分では自分が悪魔になっていることを自覚できない。誰もが自分を善人だと信じてやまない。だから悪魔に騙される。悪魔は、本当に善人の面をしている。
人間が人間であることは厳しい。しかし、永遠へと向かう魂を持つのが人間だ。私は魂のある人間的な生き方にしか価値を見出さない。
今ここに、人間の魂を奪おうとする悪魔と、悪魔から魂を奪われんと生きる人間が戦っているとしたら、かける言葉は変わってくるはずだ。本当に必要な言葉は優しい言葉ではなく、「おい、お前!もっとしっかりしろ!ちゃんとしろ!お前、人間だろ!誇り高い人間だろ!つまらねえ悪魔にやられてんじゃねえ!魂を奪われそうになってんじゃねえ!しっかりしろ!気概をもて!食われるな!苦しみ丸ごと悪魔を食らい尽せ!」こんな言葉が、必要じゃないのか?
ああ、くそう。どこもかしこも悪魔だらけだ。俗世に舞い戻れば、普通に生活するだけで、気が狂いそうになる。だが負けるな。この苦しみ丸ごと、全部飲み込んで、悪魔の力を宿してみろ。悪魔の力を生命の肥やしにしてみろ。ちくしょう!もうお前には負けんぞ。お前には絶対に魂はやらねえぞ!
文学を求めよ。文学には魂が詰まっている。厳しいが人間である。
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