パステル画かと錯覚するくらいの優しい雲に感動する朝、隆慶一郎氏の「死ぬことと見つけたり」にのめり込んでいる。この題名は、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という「葉隠」の有名な一節がもとになっており、死と隣合せに生きる葉隠武士を描いている。
現代は生の衝動に傾きすぎていて息苦しいという着想から、武士の世界が美しかったのは、生と死の2つの衝動のど真ん中を生きていたからという考えを経由して、私自身、サムライの国に生まれた男であるならば、葉隠武士から学び、生と死のど真ん中を生きる道を自分なりに探求するべきだと考えるようになった。
まだほんの一部しか読めていないが、心に留まった部分を紹介。
『必死の観念、一日仕切りなるべし。毎朝身心をしづめ、弓、鉄砲、槍、太刀先にて、すたすた(ずたずた)になり、大浪に取られ、大火の中に飛入り、雷電に打ちひしがれ、大地震にてゆりこまれ、数千丈のほき( 崖)に飛込み、病死、頓死等死期の心を観念し、朝毎に懈怠なく、死して置くべし。古老曰く、「軒を出づれば死人の中、門を出づれば敵を見る」となり。用心の事にはあらず、 前方に(あらかじめ)死を覚悟し置く事なり』
(中略)
朝、目が覚めると、蒲団の中で先ずこれをやる。出来得る限りこと細かに己れの死の様々な場面を思念し、実感する。つまり入念に死んで置くのである。思いもかけぬ死にざまに直面して周章狼狽しないように、一日また一日と新しい死にざまを考え、その死を死んでみる。新しいのがみつからなければ、今までに経験ずみの死を繰返し思念すればいい。不思議なことに、朝これをやっておくと、身も心もすっと軽くなって、一日がひどく楽になる。考えてみれば、寝床を離れる時、杢之助は既に死人なのである。死人に今更なんの憂い、なんの辛苦があろうか。世の中はまさにありのままにあり、どの季節も、どんな天候も、はたまたどんな事件、災害も、ただそれだけのことであった。楽しいと 云えば、毎日が楽しく、どうということはないと云えば、毎日がさしたる事もなく過ぎてゆく。まるですべてが澄明な玻璃の向うで起っていることのように、なんの動揺もなく見ていられるのだった。己れ自身さえ、その玻璃の向うにいるかのように、 眺めることが出来る。
隆慶一郎. 死ぬことと見つけたり(新潮文庫)
精神修養 #21 (2h/52h)
これを読んでいる人は、初めて電車に乗ったときのことを覚えているだろうか。
私が初めて乗った電車は、薄汚れたワンマン列車で、路線も1本しかなく、列車は右にいくか、左にいくかの二択だった。それでも、私は自分が知らない土地に運ばれていってしまうことが心配で、車掌さんに2度も3度も、この列車で合っているか確認した。車掌さんは優しかった。
過去の記憶が思い起こされるとき、身体にも感覚が蘇ってくる。例えば、悲しい出来事であれば、身体の内側に傷として実際に痛みが生じる。
実際に内臓が傷ついているわけでもないのに、どうして痛みが起こるのか、私はそれがとても不思議だったが、この痛み正体は、「エネルギー」なんだと感じた。何かしらのエネルギーが身体の一部に凝縮されて、痛みを起こしているのではないかということだ。
エネルギーには保存の法則がある。例えば、涙を流せば、傷は癒えて浄化されるように、体内のエネルギーを実際に身体行動によって世界にエネルギーを放出させることで、身体から痛みは消える。嬉しい気持ちは、その場で笑いや涙として、すぐに外界に放出される。だから嬉しくて身体が痛むことはない。
運動することが抗鬱になると言われているのは、運動にエネルギーを使うからだ。身体中に溜まったエネルギーを、外界に放出するから、気分はすっきりする。
身体中に起こっている小さな感覚には、色んな感情やストーリーが詰まっている。人生が全身の細胞に染みこんでいる。悲しみも喜びも憂いも。
日中、無自覚に自分を卑下するときは、盲目的に反発して堪えようとするが、瞑想中は堪えることをしないので、卑下するという行為はむしろ自分の本当の声を聞く絶好の機会となる。
身体に感じている痛みを知って、痛みの奥にある本当の声をそのままを聞ける。
現代は、「朝から自分の新しい死にざまを考えて、入念に死んで置く」なんてことはしない。どちらかといえば、幸せなことを想像しなさい、という教えが大半だろう。スティーブジョブズは「もし今日が人生最後の日なら、自分は何をするだろうか?」と毎朝問いかけたというが、これも似ているようで、葉隠武士とは異なるように感じる。
今朝、実際に自分の死にざまを考えて、入念に死んでみようと試みたが、いざやってみると死の内容を鮮明に考えようとするだけでも、とにかく恐ろしくてできなかった。想像しようとすると、本当にそれが起こってしまうのではないかと考え、怖くなるのだ。
これが「生への衝動」なのだなと感じながら、同時に私がサムライにはなりきれない理由なのだとも感じた。追腹を頭で理解できても、感覚としては理解できないように、私は死というものに対して、まだ向き合い切れていないのだ。
引きつづき、この本を楽しみながら、生と死についてテーマを探求していきたい。
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