243日前の自分を憎んでいる。[243/1000]

書くことをやめたい。やめたほうがいいことを自分でも分かっている。つまらない言葉しか綴れないことは百も承知。日々、恥を残すばかりか、言葉に魂が追い付かなければ、ただ説教臭くて見苦しい。書くことに費やす時間を読書に当てて、憧れに向かうために使ったほうがずっと魂の救済には役に立つと直感している。空っぽの言葉を残しても何も意味がない。

 

それでも辞められないのは、243日前に気まぐれに始めた1000日投稿のせいだ。あの頃の腑抜けの腰抜けが、打算に満ちた心で1000日投稿を始めるなどと抜かしたおかげで、毎日が執筆に束縛されることになった。書きたくなくても書かなくちゃならない。魂の問題については、言葉しないほうがいいものばかりである。しかし、事実、きっかけは打算であったものの、魂を取り戻すきっかけになったのは、言葉を綴る習慣の中で、人間についてや宇宙について、考えることを強いられたからだった。無論、魂を取り戻せたなどと傲慢になるつもりもなく、あくまで救済のきっかけに過ぎず、魂の崇高を地上に展開できるかは、今後の行動にすべて懸かっている。

 

自分が始めた戦いを放り出すことが出来なくなって、ただ恥をさらすだけの罰ゲームとなっている。誰も得しない。現に読者の数も、投稿を始めて10日目の頃とまったく変わっていない。増えては減ってを繰り返しながら、数はいつも同じところに収束していく。その程度の価値だ。優しく丁寧な言葉でもなければ、抽象的で稚拙乱暴で、読んでいて心地よくないばかりか、傷ついて損することもあるだろう。それでも読む人間がいるのだから、本当に変な奴だなと思ってる。

得をしないのは私にとっても同じで、語彙も表現も具体もない、自己満足に満ちた文章の稚拙さが日々あらわになるばかりか、思考や感情を言葉に落とし込めても、言葉が自分に見合わないものであれば、むしろ罪悪感に襲われる。実態の伴わない言葉ほど、ペテン師じみたものはなく、これに付き合わされている人間を思うと気の毒になってくる。

 

すべては243日前の自分が悪い。しかし、243日前に毎日執筆を始めなければ、今も腑抜けの腰抜けで、自分を満たすことで精一杯の日々を送っていたことも確かである。結果論であるが、”毎日必ず書く”規律と束縛が、宇宙の魂に近づけた。今ならわかるが、規律は宇宙のもの、つまり修身そのもので、束縛は自己犠牲と服従を強いる神との関係に必要な素養である。なんだかんだ宇宙の淵源に近づけたことには恩を感じる。誰も得しないのに書き続けるのは、243日前の自分の恩に報いることが大きな理由となっている。

 

もちろん、これを読んでいるあなたにも恩を感じていないわけじゃない。毎日言葉を書いても、カウンターが0のままだったら、1ヵ月もしないうちに虚しくて書くのを辞めていただろう。それにしても、あなたのしぶとさには本当に参っている。以前も言ったが、こんな出鱈目な戯言に満ちた記事を読む暇があったら、まともな文学でも読んでたほうが絶対ためになる。何度も言うが、私はあなたを変な奴だと思っている。

しかし、ここまできたら、墓まで道連れにしてやろうとも思ってんだ。しぶとくついてくるなら、死ぬまでついてくればいい。すべては自己責任。ただし、幸福が惜しかったら、さっさと立ち去った方がいい。これから書いていくことは、時代に蔓延る人間礼賛や、物質主義的な幸福を真っ向から否定するものになるだろうから。

神が失われた時代に生きているけれど、人間であるかぎり、淵源の崇高に恋焦がれ、追い求めなきゃならないと思ってる。厳しくて不幸なものかもしれないけれど、そこにしか人間として生まれた価値を見出せなくなっている。そこに到達するために現世を生き、野垂れ死ぬように死ねたらなんとも仕合せだろう。

 

精神修養 #153 (1h/314h)

空蝉、寂しく。真赤に、沈んでいく。同朋の魂、貴女はどこにいるのだろう。

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