はっきりと言葉にしよう。私は仕事をやめたくてやめたくてたまらないのだ。ぎりぎりの戦いをしている。不合理に食い殺されるとき、こうした悲痛な嘆きがどうしても生まれてしまう。鬱で引きこもりのクズを拾ってもらったのだから、恩知らずの糞野郎である。
しかし、今の仕事で、己の命のすべてを差し出して服従できるかと問えば、それが私にはできない。献身と服従の価値を感じられず、命を要求されるほど、命を隠してしまい、服従を強いられるほど、服従を拒絶してしまう。「もっと献身せよ!」「もっと服従せよ!」「それが仕事の美学だ!」そう自分に何度も鞭を打ち、自分を駆り立てるも、心の深い部分は、自分が嘘をついていることを知っていて、献身と服従に向かおうとする嘘つきの自分を軽蔑する。
価値を感じられないものに、どうして命を差し出せよう?高潔でないものにどうして服従できよう?嘘をつくくらいなら、野垂れ死んだ方がましだと心は叫ぶ。いや、この不合理に耐えなきゃだめだろと良心が諭す。不合理の毒と、自己の葛藤に苦しむ。
さっさと辞めて、野垂れ死んだらいいのか?文明に適応できなかった、脆い生命の宿命として…。文明から見れば、一つの弱い生命が自然淘汰によって死んだだけだ。環境に適応できない動物が死ぬのは、自然の摂理じゃないか。現文明の中で、生命を生かす道がないのなら、文明から弾かれて死ぬしかないのだろうか?文明は悪くない。仕事も悪くない。ただ、私の生命が、この時代の環境に適応できなかった。悲しいがそれだけなのか?
本当に、それだけなのか・・・?
神はそんなに無慈悲なのか?文明からはじき出された、適応できない弱い人間に、救いの道はないのか・・・?
時代錯誤のことを言葉にするが、私は神や国や主のために死ぬことに憧れている。絶対的な権力をもつ、大きな存在のもとに、絶対の服従と、絶対の献身を誓い、生命を捧げて死んでいく。そこに魂の救済を見つける。
私は自分の命を奉げる対象を自分で決めるほど、優れた人間ではないし、善悪の自由に耐えられるほど、強い人間でもない。今ここの苦しみがすべて、絶対的な神を喪失したことによる自由から生まれてるのだと、どうしても感じてしまう。
いやまて、時代を嘆くのはよそう。神を失ったとはいえ、この身体の自由は、ある時代の人間にとっては憧れでもあったのだ。時代を嘆いた瞬間に、自分は被害者にしかならない。それは、もっとも恥ずべきことのはずだ。いつの時代も、生命は時代の文明にぶつかるしかないはずだ。
では、どうしたらいいのだ。苦しみを時代のせいにできないなら、自分の生命に背負わせるしかないじゃないか。この弱き生命が、それに耐えられないから、せめて時代に押し付けようとしているのに。武士道とは程遠い、恥ずべき、卑劣であることは承知の上で、苦しみに耐えられない弱者なりの救いを求めているのだ。救いを正論で取り上げないでくれ。取り上げられたら、恥ずべき、卑劣な人間であることの形跡しか残らないじゃないか。
ああ、だからキリストは、すべての人間の罪を背負って死んだのだろうか。人間が苦しみを背負いきれるほど強くないから、代わりにすべての苦しみを背負って死んでいったのだろうか。
大きな愛だな。苦しんでもなお、この世のすべての苦しみに接吻するのか。永遠の伴侶として、苦しみから救い続けるのか。
苦しみはつづく。
しかし、苦しんだ分だけ愛は深まる。
そうだ、これこそが、愛の救いだ!
苦しみに接吻することも、苦しいことのように思える。しかし、ただ不合理に虐げられるのではなく、苦しみの中にも、涙は流せるのかもしれない。涙を流せさえすれば、苦しみは永遠へと還っていく。きっとこれでいいのかもしれない。https://t.co/Kh5htTE8Hk
— 内田知弥 (@tomtombread) March 25, 2023
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