「葉隠」は前にもいったように、あくまでも逆説的な本である。「葉隠」が黒といっているときには、かならずそのうしろに白があるのだ。「葉隠」が「花が赤い。」というときには、「花は白い。」という世論があるのだ。「葉隠」が「こうしてはならない。」というときには、あえてそうしている世相があるのだ。
三島由紀夫「葉隠入門」
知らず知らずのうちに自己に課した道徳を打ち破るとき、己の白を黒に染める。その黒も今度は白へ、そして赤に染めるのである。あるときはヒョウのように走り、あるときはカタツムリのように歩く。あるときは雷のように怒り、あるときは春のそよ風のように優しくなる。
流体となるほど生命のエネルギーは高まるが、ひとつの答えや正解に固執した途端、そのエネルギーは滞る。調子のよさに安住せず、絶えず問い、絶えず学びつづけ、絶えず動きつづけなければならない。
流体となるほど、心身の調子はよくなるはずだが、同時に流体は不安定ゆえ、答えや正解を探し、そこに落ち着こうとする。白を黒に染め、黒を赤に転じていると、自分というものが掴めるのである。だからこそ、変わらないものも同時に持たなければならない。水が絶えず流れていても、川が川でありつづける。
数えきれなくなるほど、投げ出したくなったこの1000日投稿も、無様な姿をさらしてでもしがみつこうと思うのは、これが私のなかの変わらないものであるからである。ここに言葉を綴るかぎりは、日常にどんな下降があろうとも、大きなところでは憧れに向かわせてくれると信じられる。
しかし、良くも悪くも言葉にすることは教条化の危険がつきまとう。今日導き出した言葉も、ここに固執すれば、心は安堵するかもしれないが、一つしがらみをつくることになる。ゆえに、過去の言葉の縛られず、矛盾を貫きたいと願うが、やはり言葉になった時点で、もっとも純度ある流体は既に失われているのである。これは、肉体があるかぎりは、どれだけ願っても天に到達できないように、物質に支配される人間の宿命でもある。
一つの大きな理想は、気高さを備えた不良だ。自分が掲げた過去の教条を、さらに大きなところで堂々と矛盾しながら打ち破っていくのだ。過去に自分が残した言葉との矛盾を怖れれば、可哀想であるが善人となる。そんな縮こまるように、過去の自分に縛られるなかれ。野性ある人間として、体を縛り付けるロープを引きちぎっていくのだ。
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