満たされる自分を拒絶していたのは、満たされる心に生じる、慢心さや奢りを赦せないからだった。
幸せであることと、満たされることは、似ているけど別物。前者は透明で後者は不透明。
私の場合、満たされる心に慢心さや奢りが生じていた。慢心や奢りは、心を不純にした。
満たされることの気持ち良さに不純さは誤魔化されてきたが、本当にこれでいいのか?という疑念に常に訴えかけられている感覚があった。
満たされる自分を心から歓迎することはできず、言葉にならない疑念にただ悶々とした。
昨晩、週の仕事を終え、満ち足りた自分を眺めていると、不透明さの正体を初めて自覚した。
拒絶していたのは、満たされることではなく、満たされた心に生じる慢心や奢りだった。
心が透き通らない感覚を好まず、純粋であることを何よりも欲している。
仕事をしても、人と会っても、言葉を書いても、そこに不純なものが見つかれば、必ず後悔の念に駆られてきた。
これは慢心や奢りを抱えることの罪の意識だった。私は自分の罪を赦すことのできない弱さを抱えている。
自分の罪を赦すことができないのだから、他人の罪も赦すことができない。
人に傲慢な部分を見つける度に苦しくなり、結果的に、私は孤立したのだと思う。
キリスト教の「主の祈り」の一節を思い出している。
「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」
赦されたいなら、赦しなさい。赦せば、赦される。という、キリストの教えはかなり衝撃だった。
私にとって自分を赦すとか赦さないとか裁きの主はずっと自分だった。これは信仰のない現代日本では当たり前の感覚だが、言い換えれば自分が神になっているということである。人を赦すとか自分を赦すとか、この裁きの鉄槌を振るうことの重荷をすべて引き受けてもらったような気持ちになった。
天に裁きを委ねてもいいのか、という疑問はあるが、そもそも私たち人間は、自分で自分を裁けるほど完全な存在でもないと思う。
当たり前のように人を裁いてきたが、それこそが真の傲慢だったのだろうか。
裁きについて、これは自分や他人の「赦し」の核心を貫くテーマだと思うので、時間をとって真剣に向き合ってみたい。
精神修養 #64 (2h/136h)
手が冷たくて、まるで氷の手袋をしているようだけれど、思考に夢中になっていればそんなことにも気づけない。
なんとなく自覚している状態と、そのままを自覚している状態では、「現実」を生きる鮮明度も違う。
鮮明な意識を純水だとするなら、思考は塩や砂糖のようなものかもしれない。溶け出すほどに純度は落ちていく。
キリストは「目を覚ましていなさい」と言った。ブッタは「気づいていなさい」と言った。これらの指すものの本質は同じであるように感じている。
肉体に囚われず、いつも天と繋がれるように努めることなんじゃないかな。
[夕の瞑想]
苦しい時に「同じ人間誰に劣り申すや!」と自分を奮い立たせる高慢さは、あんなにも透き通っているのに、満たされているときの高慢さはこんなに醜いのはどうしてだろう。
幸せになることを拒絶していたと思っていたけど、本当は満たされた心の隙に生じている奢りに対して、息苦しさを感じていただけだった。
孤独に潰されそうになっているとき、心は苦しいが、心は透明だった。満たさせるときの心は、苦しみの渦中にいるときよりも不純になるのはなぜだろう。
高慢になるのは苦しくて自分を奮い立たせるときだけでいいんだよ。
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