心の痛みをしっかり味わうと、心で喜びをしっかりと味わえる。

都内のマックにいる。

昨晩は、横殴りの風が吹き、雨にさらされながら寝た(寝れなかった)。

仕方なく、朝の3時に起床して、原付で移動…今に至る。

 

旅をしていると、傷つくことがある。

先日は、傷心に傷心に傷心が重なり、「こんな世界生きてられねえよ…」とくらいにまで追い詰められた。

 

そんな最中、千葉で会った友達に、焼き肉をご馳走してもらった。

「思いっきり食おうぜ。」と彼は言う。

 

「思いっきり何かをする」って、心がくすぶっている状態にはうってつけなんだと思う。

傷心している時にいつも助けになるのは、思いっきり食べて、思いっきり泣いて、思いっきり寝ることだ。

 

以前、「人生は振り子のようだ」と比喩した。

人生は振り子のように、マイナスへの振れ幅が大きいほど、プラスへの振れ幅も大きくなるということ。

 

どうやら、これは「振り子の法則」、「正負の法則」というらしい。

それで再確認したことがある。

 

私たち人間は

心で痛みをしっかり感じるからこそ、

心で歓びをしっかり感じられる

のだって。

 

例え、苦しい思いをしていようと、必ず良い方向に振れていく。

そう信じて、心が痛んでいる自分も、抱きしめてやればいいのだろう。

 

 

1 心の痛みは、心の歓びを知るためにある

心は痛まなければ、心は歓びを感じられない。

痛みは歓びであり、歓びは痛みだ。

 

私はいま、孤独を感じることがとても多い。

一人で朝を迎え、原付で移動し、食事し、景色を眺め、こうして文章を書き、一人テントの中で静かに寝る。

人と話しても、生き方を理解されないことも多々あり、そんなときはさらに孤独を感じる。

 

自由に見える私の生活も、大半は「孤独」を味わう時間の方が圧倒的に多い。

 

そんなこともあり、こうして人に出会うと、1つ1つがものすごくかけがえのないものに感じられる。

話を心で受けとめてくれることに感動をおぼえるし、一緒に笑ってくれることに「なんて素敵な繋がりに恵まれたのだろう」と愛情にあふれる。

 

これって、お腹がペコペコのときに食べるご飯が、ものすごく美味しいのに似てる。

人との繋がりが「当たり前」のことではなくなるから、些細な人との繋がりが特別な時間になる。

 

  • 傷ついたあとにふれる、人の優しさはとても温かいし
  • 孤独のあとの人との出会いは、愛の安心感に包まれる

 

私たちは普通に生活してると、「痛みのない人生」を歩もうとする。

「痛み」は悪で、「快さ」が善だと一般的には思われている。

 

私も無意識のうちにそう思っていた。

けれど、本当は善も悪もない。

 

便利な言葉に頼っちゃうと、この2つは「表裏一体」の関係にあって「振り子」のように揺れ動いてる。

だから、どちらかを捨てて、どちらかだけを得ることなんてできない。

 

悲しむのは、喜ぶことを知っているから。

泣くのは、笑うことを知っているから。

絶望するのは、希望に生きているから。

不自由になるのは、自由を知っているから。

 

「心の痛み」を味わうから「心の喜び」も味わえる。

痛みを味わなければ喜びも味わうことができない。

 

きっとそれを身体で知れたとき

痛みは、人生を「不幸にするもの」から

人生を豊かにする「肥やし」へと変わっていく

のだと思う。

 

2 心の痛みを受け入れることで、心は歓びを迎え入れる

心の痛みを受け入れるから、心は歓びを迎え入れられる。

痛みは思いっきり貫通したほうがいい。

 

心の振り子は、「思いっきり味わう時」に反対に動き出す。

思いっきり泣いた後に、スッキリして前にすすめること、ルンルンな気分も落ちてしまうこと、どちらもそう。

 

私たち人間の難しいところは、

  • 「快」は無意識のうちに味わえるのだけれど
  • 「不快」は意識しないと味わえないということ

 

嬉しいことや楽しいことがあったら思いっきり笑っていても、悲しいことや辛いことがあっても我慢しちゃうことない?

私はそんなことが昔あって、いつも誤魔化してた。

 

目標を達成できたときは、嬉し泣きする。

そのくせ、上手くいかないときは、心を無視して無理やりポジティブに考えようとする。

 

「ポジティブシンキング」っていうけれど、ネガティブにフタをするポジティブは、不健全だと思う。

心が悲しんでるときに、頭で笑おうとしても、それはむしろ誤魔化しているだけだ。

 

心が悲しんでるなら、悲しんだほうがいい。

心の痛みは、思いっきり感じきることで、喜びへと変わっていく。

 

人と出会っていくと、「泣くこと」に抵抗感を抱いている人が意外といることを知った。

涙を流すことは、恥ずかしいことではない。

 

涙を流すことは、感情を突き抜けることだ。

泣いた分だけ、人は強く(弱く)なっていくのだと思う。

  • 孤独をつきぬけるほど、人との繋がりを大事にできる
  • 悲しみをつきぬけるほど、喜びも大きくなる
  • 苦しみをつきぬけるほど、楽しみも膨らんでいく

 

それは過去も同じ。

過去の悲しかったできごと、苦しかったできごとも、当時の感情をに涙を流すから、癒されていく。

 

だから心が泣きたくなったら、思いっきり泣くことだし、悔しいのなら、思いっきり悔しがることだ。

思いっきりの泣いた後は、思いっきり笑えるようになる。

 

3 心の痛みの分だけ、人生は豊かになる

心の痛みを突き抜けた記憶はずっと残る。

死ぬときに、豊潤な記憶に心を震わせたい。

 

進化論という概念がある。

使うものは進化するし、使わないものは退化する。

多分これは、心においても同じだ。

心の痛みや喜びは感じるたびに、どんどん鋭くなっていく。

けど感じることを避けてしまえば、感じる力はどんどん弱くなる。

 

私はよく過去を思い出す。

楽しかった過去も、辛かった過去も。

 

不思議と、いつも記憶に残っているのは、「心の振り子が、思いっきり揺れた瞬間」だったりする。

死にそうになった瞬間とか、嬉し泣きした瞬間とか忘れることってまずない。

 

経験しても、残る記憶と残らない記憶があるのだ。

大半のことは記憶には残らず、忘れてしまう。

 

それで最近はこんな風に思う。

死ぬときに人生を振り返って、

心に刻まれた記憶にたくさん思いを馳せることができたら、すごく豊潤な人生だって。

 

  • 大好きな人に振られて死にそうになったとか
  • 世界中を旅したとか
  • 自分の意志で新しく仕事を始めるとか
  • 偉そうな上司のみぞおちに正義の掌底を食らわせて、めちゃ怒られたとか
  • 家も車も仕事も、何もかもなくなってしまったとか

 

「ああ、あのとき……だったな」って誰かと笑い合う瞬間は、宝物だと思う。

そこにいた全員の心が動く瞬間って、かけがえのないもの。

 

それは決して楽な生き方じゃなくて、むしろ疲れるもの。

効率的な生き方でもないし、むしろ非効率な生き方なのかもしれない。

 

けれど私はそんな生き方に憧れる。

心の痛みは「通過儀礼」のようなものだと思う。

より人間らしく、正直に、自分を全うするための試練のようなもの。

 

どんなに辛い経験も、極に振れてあげれば、“後味の良い記憶“へと変わる。

生きるってそういうことなのかな。

 

「生きる」 谷川俊太郎

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

 

最近、詩を読むのだけれど、谷川俊太郎さんの「生きる」の一部を紹介するね。

当たり前な日々に、私たちは今日も生きている。

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