現世を嫌う人間も、永遠の一部を飾るのが、今日であるという事実からは目を背けることができない。凄惨な過去も華やかな過去も、はじめから歴史の一部を織りなしていたのではなく、不自由と不条理に抗争した人間たちの命の躍動によって産み落とされたものだった。
それを思うと、ただ死がやってくるのを待ち、己が永遠の一部になるのを座して待つことが、神の意に背くように思えてならないのだ。命の躍動によって綴られる歴史は受身のものを歓迎せず、勢いをもって飛び込んでくるものだけを抱擁せんとするばかりではないか。
その証拠に、われわれが己の人生を顧みて、己自身を祝福してやれるのは、命を捧げんとする勢いで身を擲って戦っていた日々ではなかろうか。そうした過去が最も永遠に抱擁され、不死鳥のごとく何度も蘇るのだ。これは、そのように生きろ神の意を心が働かせているのではないか。
現世を嫌えば、現世から距離を置きたくこともある。そういう時間は、静かに書物に触れ、永遠を養うために存在する。なぜ永遠を養うかといえば、現世のほんとうの価値に気づくためであると思う。真に永遠を愛そうと思えば、その一部となる現世も愛さずにはいられないことに気づく。現世に身を捧げれば、そのすべてが自ずと永遠に抱擁されることを知る日がきっと来るにちがいない。
私は隠遁といえるほどの隠遁生活をしているわけではないが、まるで隠遁の大海原のうちに、一つの島を見つけたようである。
【書物の海 #9】失楽園(下), ミルトン 作, 平井正穂 訳 (岩波文庫) (途中)
人間が自分の奔放な欲望に仕えようとして自らを卑しめ、その仕えたものの像を自らの像とした時に(主としてこのような不埒な悪徳がイーヴの罪を誘発したのだ)、人間を見棄ててしまった。人間の受ける罰があのように惨めなのはそのためであり、それも神の姿をでなく自分自身の姿を醜くしたからに他ならない。よしんば神の姿を醜くしたとしても、すでにそれは前もって、人間が汚れなき自然の健全な法則を嫌悪すべき病的なものに変えた時に、その手によって汚されてしまっていた。したがって、事態があのようになるのも当然なことだ、なにしろ、人間が、自分の内なる神の像を崇めようとしなかったのだから」
欲望を神に仕立て上げ、欲望の僕(しもべ)として仕えるうちに、本来そこにあったはずの神の像は、完全に忘れられてしまったのだ。これは、人間が神を見放したというべきか。それとも神が人間を見限ったというべきか。いずれにせよ、大歓声をあげて喜ぶのは、復讐を見事に遂げたサタンである。失楽園を読んでいると、そのサタンが歓ぶ姿が、ありありと目に浮かんでくる。
失楽園下巻も残すとこ、十二巻のみとなった。ほんとうに宇宙の混沌を旅しているような日々である。
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