人間が翼を失うのは、神が定めた宿命であったのだろうか。[474/1000]

人生に「美」を見出さずにいられない人間は、その中心に「神」を据え、平坦な虚ろを貫いて猛々しく立ち上がることに憧れる。それが人間のみに与えられた宇宙の神秘だと信じるからである。そして、これこそが、意味のないと言われる虚ろな人生に、宇宙の光を照らす唯一の方法である。

しかし、人間は翼を失い、天と地の境界線を超えられなくなるどころか、その存在すら忘れてしまうのは、神が定めた宿命であったのだろうか。

 

1667年に出版された「失楽園」の中で、ミルトンはサタンにこう言わせている。

「彼らは、神々のようになりたいという願望に燃えて、あの樹の果実を味わい、死んでゆくはずだ。そうなることはもう眼に見えている!」

 

ミルトンの言葉は、まるで人類の行末を予言したかのようである。神々のようになりたいという願望から、アダムとイヴは知識の果実を食べ、人間は善悪を知り、恥を知り、罪を負う。神々のようになりたいという願望も、はじめは愛嬌のある憧れに見える。そして、恥の意識に生まれたものが、日本の場合は武士道だった。人類の魂は、栄枯盛衰とともに引き継がれ、しかし、徐々に信仰は薄れ、神も力を失っていく。

その裏、サタンはめきめきと力をつけ、誘惑によって人間の欲望を強大化させていった。そして、ついに、人間は神から完全に離脱し、自分が神となる時代に到達する。アダムとイヴが知識の果実を食べたときに生まれたさざ波は、今では大地のすべてを飲み込む大津波のようである。

4世紀も前に、ミルトンにそれが見えていたのは驚きであるが、ここまで壮大であると、さざ波が生じた時点で大津波が生じるのは必然であり、すべては神が仕組んだもののことに思える。

 

大津波は、もはや止めることはできまい。末世にいる今日の人間は、サタンの予言どおり死んでゆくのか、それとも最後の人間として、神に意地を見せるか。

 

【書物の海 #4】・失楽園(上), ジョン・ミルトン, 岩波文庫

失楽園の上巻を読み終えた。「素晴らしい書物だった。」と評論家ぶるのは現代人の傲慢で、素晴らしい書物であることなど、最初から分かっていることで、問題は、信仰を失った現代人が、どれだけミルトンの深淵を掴めるかである。

ミルトンは、1652年に完全失明している。失楽園が出版されたのは1667年で、失明の中、口述筆記された。

「書物の海」でも書いたが、「失楽園」は百回読み込むことを目標とする。命をかけて残した男の書物というだけで、それが最低限の礼儀であるように思う。むしろ、ミルトンが書物に捧げた労苦に比べたら、「わずか」百回である。それほど重たい魂を感じる。

 

「大胆不敵にも、あえて、全能者に向かって、武器をとって刃向かってきたきたこの者を、いと高く浄き空から真っ逆様に落とし給うたのであった。彼は凄じい勢いで、炎々と燃えさかる焔に包まれて、奈落の底へ、底知れぬ地獄へと、墜落していったのだ。」

「われわれが天へ上昇し、元の住処に戻ることこそ、われわれ本来の動きであることを、この際とくと考えてもらいたい。下降し、墜落するのは、われわれの本性にもとるのだ。」

 

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