異常なほどの寂しさは、まっとうに人間をやっている証である。老いと死の風に無防備に晒されて、ただそこに、佇んでいるのである。凍えた魂を温めるのは、炎々と燃える太陽の役目だ。日没が寂しいのは、太陽が去ってしまうからである。夜明けが嬉しいのは、太陽がやってくるからである。希望が春に訪れ、悲しみが冬に訪れるのは、太陽が長く、また短いからである。太陽がなければ、生物は凍えて生きることもできないが、仮に生きのびられたとしても、太陽を失った寂しさに耐えうることができるだろうか。否。太陽に背を向けることはできても、太陽を超えることはできないのだ。
森の家での暮らしを始めて、一週間が経った。残暑が去ったばかりだというのに、朝晩は5度まで下がる。毎日のように薪ストーブに炎を燃やし、寒さをしのぎながら、書物に浸かる。太陽が届かない森のなかでは、この炎だけが凍えた肉体を温めるのだ。炎を前にしていると、まるで小さな太陽のようだと感じる。宇宙の遥か彼方から地球を熱する灼熱の太陽が、憐れみをもって小さく擬態しているようである。私はこの炎によって、魂をも癒される。死と老いの風に無防備に晒されるも、無防備のままその風と一体となれるのは、この炎が小さな太陽となって、内側から猛々しく燃え盛るからである。
火水風土。私は風水のようなものには疎い人間であるが、上の話をもっても、元素には神に通ずる力があると感じる。そして近年、生活から失われた元素が火である。エアコンのボタン一つで、部屋は暖かくなる。ボタンを押せば、調理ができる。快適に生活をするにはこれで十分だが、魂を癒すには不十分である。あの生々しい炎には、神々しい眩しさ、炭がパチパチ燃える音、焼けて灰と化していく木と、燻った煙の香り、といった五感にとどまらず、信仰としての第六感、つまり魂に訴える力があるのだと感ずる。
人間が人間として魂を紡いできたのは、この炎々と燃える太陽のおかげだと確信する。また、その陰の作用として月のおかげである。もし私に、次があるとすれば、そのときは太陽の下で暮らしたいと思う。しかし、この”月光の森”の暮らしも、寂しいが、素晴らしいものである。こうしている間にも、今日も陽が暮れていく。ああ、ほんとうに寂しい人生である。
【書物の海 #4】
・地獄変, 芥川龍之介
醜い容姿と醜い心をもち、世間から嫌われた絵師がいた。男は、見たものしか描くことができず、その地獄を描くために、愛娘が焼け死ぬ地獄を見殺しにする運命となった。男は娘を見殺しにした余生に耐えきれず、地獄変を描き終えると自殺して一生を終えるが、出来上がった屏風絵は大変見事なものであった。哀しい男の一生であるが、悲劇のなかに魂は救済される。
これを読んで、私は揺れた。魂というものが怖ろしくなった。優しい幸福を焼き殺すその魂は、神から人間にのみに与えられた悲劇的な感情にちがいないが、なんと残酷で哀しいものか。命を絶った男は、その悲劇に耐えられない肉体の弱さを見るが、それが余計に魂の永遠を際立たせることになる。
今日はどうも、人生の寂しさ、儚さ、虚しさが色濃くなるばかりである。嘆きというより涙であるが、ほんとうに人の世は儚いものである。
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