命の花がしぼんで枯れ落ちていく。老いと死の風に無防備に晒されて、寂しさとはただそこにたたずむものである。
森の暮らしに寂しさはあっても虚無はない。しかし、寂しさのためか、つい火を灯して、炎のなかに安らぎをみつけたくなる。夜中に目がさめれば、外に出て、月を眺めることは昨日も書いたとおり今日の愉しみであるが、真夜中に意味もなく薪を燃やすこともその一つである。燃え盛る炎には、月と同じく永遠に通ずる何かがある。月が恋ならば、炎は情熱か。
しかし、まだ20代であるのに、何とじじくさい生き方だろうと、我ながら呆れてもいる。恋だの憧れだの情熱だのと言葉にしているものの、恋も憧れも情熱も、すべて若さの産物だとすれば、それがいちばん足りないのは私自身なのではないか。体力を持て余すのは、この肉体を捧げる覚悟が失われているからであろう。ほんとうは食うことも寝ることも忘れて、気づいたらぶっ倒れていたというくらい何かに没頭したいのである。そんなことを事実感じているも、肉体を擲つだけの価値あるものを信じられずにいる。
油断をすればつい、つまらない私情を書き連ねてしまう。これは私自身の日記に回収し、ここらで写本を試みたい。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。」
―旧約聖書 詩編42
毎日笑って生きられたら、それにこしたことはない。しかし、魂にとって本当に糧になるのは、笑いではなく、涙なんだと思う。苦しい日々や、情けない自分に涙することがなくなれば、魂の成長はそこで止まる。涙をなくすのは、恥を失うときである。お前の神はどこにいると、神の存在すら信じることも困難で、自分の道に確信を得ることもできない。そんな日々もすべて含めて、涙である。今日という日も、今この瞬間も、涙である。無駄だと思う涙も、必ず糧になっているのだ。そう信じて、だから、せめてその涙だけは拭って、笑ってみせようじゃないか。
中学生の時はお世話になりました。
紡ぐ言葉が美しくて好きです。素敵な文章をありがとうございます。
元気にやってますか。
こちらこそ、ありがとう。