気分の扱いについて。制するか受け入れるか。[459/1000]

晴れた日には、天から「働け」といわれているようで、どんな日だろうと関係なく、作業はモリモリはかどるが、どんよりした雲や雨の日は、どうも気持ちが盛り上がらない。太陽は気分を高揚させ、鼓舞されることが多いが、雨や雲は気分を落ち着かせ、癒されることが多い。ちょうど、森の家づくりが楽しくてしかたがないところなので、できればこのまま盛り上がっていきたいところであったが、この数日降ったり止んだりの天気で、自然体が掴む気の性質に、あらがうことができないでいる。

 

皆が天の気のままに生きれば、人間社会はまわらなくなるので、晴れの日も雨の日も同じように働き、規則正しく休みが与えられる。私はそうした社会の束縛から半分解放されている状態なのでどちらに転ぶこともできるが、とりあえず動けばやる気になるだろうと、手をうごかしてみるも、作業は通常の半分もはかどらない。

 

社会に生きる人間は、こうした気分を制して、精神というものをつくりあげた。私が働く人間を第一に尊敬するのは、休みたい日や、のんびりしたい日も、精神によって気分を制し、プロとして仕事をまっとうする点にある。働いている人間からすれば当たり前のことかもしれないが、自分の外側にもう一人の自分をつくりあげ、美意識によって内を制する人間は、どんな仕事をしていてもかっこいいのである。

 

社会から逃れ、自然に溶け込んで暮らした人間は、「晴耕雨読」に生きた。晴れの日には労働し、雨の日には書物を読むというのは、単に雨の日に畑を耕すことが、体調を壊してしまい不適であるというだけでなく、自然の発する気の扱いに長けていたように思う。太陽は気を高揚させ、雨は気を静める性質を理解し、その日の陰陽の気質のなかで、天に通ずる道が、晴耕と雨読だったのではないだろうか。

 

気を制し、精神をつくりだすことが社会の人間の宿命であったのなら、気を受け入れ、自己を高みへ導こうとしたのが、晴耕雨読の気品だったように思う。私はどちらにも憧れるが、男である以上、精神を築き上げることの憧れは強い。森に家を建て、社会から半分隠遁する今は、晴耕雨読に自己を鍛えるいい機会だとも思う。

どちらにせよ、気分のまま怠けるという話にはならず、楽をしたい自分からすれば、手厳しさを感じるものもあるが、こういうときこそ葉隠の言葉、「同じ人間、誰が劣り申すや」で自立する勇気をもちたいものである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です