感情はエネルギーである。感情が体内で凝固すれば、エネルギーの循環に不具合が生じ、心身に不調をもたらす。ゆえに、カウンセリングなどでは過去の苦しみを再体験しながら、体内に凝固した感情を涙に浄化させ、凝固したエネルギーを外に放出することを試みる。
体内のエネルギーが滞りなく流れるようになると、自然と感謝の念がわきおこるようになり、穏やかな空に浮かぶ雲を見上げたり、素足で大地をふみしめる度に、幸せを感じられるようになる。日頃少しずつ蓄積した鬱憤が、ある日突如と爆発するのは、伐木により根から水分を吸収できなくなった山の斜面が、土砂災害をひきおこすのと同じである。
エネルギーが絶えず流れる状態が、自然本来であることはいうまでもない。しかし、この状態がすべてであり、この状態にならなければいけないと思うのは、現代の人間礼賛による、まやかしかもしれない。とくに、癒し系の人は、感情第一主義の罠におちいりやすいように思う。何を隠そう、私自身が感情第一主義で生きてきた人間であるから、その肥大した自己については耳が痛いところがある。
感情は誰にでもあるものだが、精神はつくらなければないものである。昔の人間は、感情に重きをおくよりも、感情を制し、自己を鍛錬し、精神をつくりだすことに価値を見出していたように思う。ドストエフスキーの小説なんかを読んでも、ほんとうに病的で、読んでいるこちらまでもが熱に浮かされたようにクラクラしてくる。人間はもともと、宇宙にとってはいびつな存在であり、病的な存在であるのだと感じるのである。それは、精神というものを重んじたときには、感情を犠牲にしなければいけない場面が生じるからであり、結果として、でこぼこで、不出来で、つまらなく、不良な存在になることもあるのだと思う。
なにもかもがうまく流れる日ばかりでなく、停滞したエネルギーは今日という日を台無しにするかもしれない。穏やかに流れていれば、きっと人生は豊かなものになるにちがいないが、そうは生きられない人間も、人間らしい愚かな性であると受け入れてやりたいのである。
私はこうして言葉を毎日書くのは、いつも感情をエネルギーにしている。しかし、感情そのものに価値を置くというよりは、感情というエネルギーをもちいて、精神をあらわしたいと願っているのかもしれない。はたして、そんな崇高なものが私から生まれるのか、自分で考えることも畏れ多いし、実際は感情の戯言になっていることが実際であろうが。
めざすところは、たった今どんな感情であるにしろ、これは石炭のようなものであると自覚して、このエネルギーを頼りに、より崇高なものに近づくために燃やしたいということである。
これが、感情というものが沈んで、なかなかうまくいかない日の、せめてもの考え方である。
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