居場所がなくて生きていけないなんて、そんなバカな話あるかい。居場所なんてもんは大ウソである。そんなもの、社会がつくりだした虚妄である。本当は、日本のどこにいても心の深いところ、いわば魂で繋がってきたのが、同じ祖先をもつ民族の温もりなのだ。居場所なんて見つけようとしなくても、家族とも地域とも先生とも友とも天皇とも、そして自然や宇宙とも、つながることのできるのが、人間の魂というものなのだ。それが昨今失われ、人々が断絶し、孤立したから、その寂しさを補うために”居場所”という言葉がつくられたにすぎないのだ。だから、居場所という言葉そのものが、そもそも消極的である。そうではない。本来、人間同士、同じ星に生まれ、同じ国に生まれた以上、信仰をもとに無条件につながることができるのが、人間の魂の尊さというものだ。昔の写真や、映像を観て、だれもが感じたことがあるだろう。戦前や戦後まもなく、物質的に貧しくとも、世界に流れていた、あの静謐でなんだか温かい清らかな流れを。あれこそ、魂の温もりである。人間、特に日本人は、大いなる自然のもと、地震や火事、津波に励まし合いながら、宇宙の力を共感して生きていたのだ。
居場所を探すとか、居場所をつくるとか、そんなもの本当にあるのか。私には、なにもかもが嘘っぱちに思えて、生命の根源から欲していた本当の居場所はどこにも見つからなかった。少なくとも、社会の中には。だけども結果的に、孤独を選び、社会の外に弾かれてみると、心に静謐な流れを感じている。不思議だ。それは居場所なんて、安っぽい言葉で言えるようなもんじゃない。あのかつて、家族と地域と先生と天皇と自然や宇宙と繋がっていたような、魂の温もり、すなわち生命の故郷である。孤独になることによってほんとうの価値に出会うことができたのだ。
生命の故郷は、時に縛られない。現世にかぎらず、古今東西、孤独に天と繋がって生きたすべての人間と共振するのである。そして、同じように孤独によって天と繋がり生きたすべての人間と、宇宙の中で繋がるのである。孤独のまま、ひとつになるのである。ここに、真実を見出すのである。昔はそれが当たり前だったのだ。人は孤独であることを認めていた。家族のなかでも、地域のなかでも、一人一人が孤独だった。しかし、だからこそ、天の下皆つながっていた。
社会の作り出す言葉にだまされちゃいけない。社会のつくりだす言葉は、社会が人間を飼いならすために生みだしているものにすぎない。それは必ずしも悪いものではないのだけれども、今日の社会は、天とのつながりが断たれ、宇宙的価値も、仁義のかけらもないのだから、社会を妄信して信じていたら、権力者の金のために利用され、孤立と不安をあおられながら、物質主義のもと、虚無に苛まれる人生しかない。私は、そんな社会を深く悲しむ。だから”いい子”をやめねばならん。社会の妄言にまどわされず、社会の言葉を鵜吞みにせず、自分の頭で考え、自分がこれだと信じるものの価値を信じ切る強さがいる。最後には天の下、孤独に死ぬことを厭わない覚悟がいる。その覚悟だけが、勇気を与え続けてくれるのだ。私はそのように生きたいと願う。
コメントを残す