信仰を失った代わりに、干渉の自由も失った。信仰のない干渉は水平的であり、これは価値観の押しつけ合いにしかならない。だから今日は相手を受け入れることの価値が善となった。
今日、人に干渉することは、恥辱を受ける覚悟がいる。恥辱は死ぬことより苦しいかもしれない。https://t.co/zmN8FvFOuk— 内田知弥 (@tomtombread) February 12, 2023
孤独に生きる覚悟はあるか。貧しくとも、不幸になろうとも、孤独のまま朽ちていく覚悟はあるか。ただ人間として生き、人間として死ぬことだけに誇りを持てるか。そのために、すべての醜い生き方を拒絶する覚悟はあるか。そこを問うている。
キリストですら、自分に命を奉げられない人間は私にふさわしくないと拒絶した。本当の受容は拒絶から生まれる。これは対人に限ったことではなく、生きる覚悟の上でも言えることだろう。魂の価値を重んじて、高潔に生きたいと望むのなら、低俗な生き方を拒絶しなければならない。自己受容がもてはやされる世であるが、何でもかんでも自分を受け入れるなど見当違いであった。魂は高潔な生き方を要求する。肉体を拒絶し、低俗な自分も、卑しい自分も、拒絶して恥じることを要求する。その要求に応えたものだけが、法を身とすることができる。
すべてを受容することが愛だと勘違いされる。すべてを受容すると言えば、聞こえはいいが、聞こえがいいものは大体、自己中心性によって都合よく生み出された考え方である場合が多い。私自身、すべてを受容することが、善だと信じていた。すべてを包み込む母性愛は、かぎりなく魅力的である。しかし極端な話、我が子が気分で人の命を奪ったとして、それを受け入れることは愛と言えるだろうか。
すべてを受容することが愛だと勘違いされるのは、魂が失われたからだと考える。宇宙には絶対的な自然の法がある。魂とも、霊性心とも、宇宙の心とも、真理ともいえる。しかし、魂が失われれば、絶対的な宇宙の心は失われ、自己中心に根差した現世の価値観のみが残る。現世の価値観は相対的である。ゆえに、「自分」の数だけ正義がある。この「自分」から生まれた平和思想が、すべてを受容することの愛ではないだろうか。「自分」を基準に発せられたこの愛を自己愛というのではないだろうか。
拒絶と否定は違うと考える。否定とは、現世の価値観を対象とする。自己否定とは、現世の肉体における、感情的な攻撃に過ぎない。一方、拒絶は魂を基準とする。魂を基準に人間として尊厳を持って生きることを問い、精神を鍛練することを指す。つまり、魂を救済し、魂に生きる手段になるのが拒絶だと考える。読書においても拒絶である。かつて魂に生きた人間に触れて、低俗で卑しい自分を拒絶することである。ここに人間として生きる道があると信じる。否定と拒絶を混同させてはならない。
精神修養 #147 (1h/303h) #148 (1h/304h)
・この宇宙にどんな楔を打つのか。何に憧れるのか。打ち込んだ楔を、毎日思い焦がれ、憧れによって自分を制する。毎日、毎日、毎日、毎日、ただこの憧れを恋忍び続ける。そうして宇宙の彼方までどこまでも伸びてゆけ。やっぱり瞑想は、恋忍ぶことと言えるかもしれない。
・「求めよ、さらば与えられん」キリストのこの言葉が、昨日からずっと心に溶け込んでくる。これは対人関係における拒絶、束縛、要求、犠牲、受容を意味しているように感じてならない。求めることで初めて人間関係は切り開かれる。読書における、偉人の魂との交流についても同じことが言えるだろう。
・自分に厳しくあれるのは、自分の生命を愛しているから。それがいざ他人となれば、どうして厳しくなれないのか。いざこざのない、表面的に受け入れるだけの関係を自由だと思っていた時期もあったが、これは自由ではなく希薄であった。希薄はいつも虚しさを残す。虚しい時間を過ごした自分を恥じている。
・”相手を理解しよう”とか、”相手を受け入れよう”とかは、自己中心性に飲まれた考え方なのかもしれない。
・孤独は点である。点であるときは、垂直方向に伸びることはさほど困難ではないが、現世の人間と交流すれば、点と点が繋がり水平線が生まれる。水平化しようとする時間の中で、どれだけ垂直化できるかが、自身に課していた使命だった。
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