善のフリをした悪というものは、この世に多く存在しているように思う。
(何が善で、何が悪かを論じられる人間ではないので、今日のところは昨日書いたように、自我の膨張作用を悪とし、法を身に纏う力を善としたい)
人間が生まれ持った自我の膨張作用を、性悪説のいわれとするとするなら、人間が法を身に纏う力を持って生まれたことこそ、性善説のいわれではないか。
昨日につづき、今朝の瞑想も、天と繋がることを放棄し、どれだけ考えないように努めても、仕事のことを考えてしまう。仕事のことを考える間は、いかにも自分が働き者であるかのようで、いい考えが思い浮かぶものなら、有意義な時間を過ごしたような気持ちになる。瞑想には集中できなかったが、いい時間が過ごせた…..と「自分」は考える。
しかし、自分にこだわりすぎているという点では、善のフリをした悪だ。いいことを考える間は気持ちがいい。しかしこれは、悪いことを考えて嫌な気持ちになることと、コインの表裏の関係でしかない。
表面を見れば、生産的なものとそうでないもの違いはある。しかし、天との繋がりを考えれば、どちらも現世的などんぐりの背比べにすぎない。予め決めた法を破り、自分にこだわることを優先すれば、どちらも自分を肥大化させる。
もう1つ。キリスト教の安息日の考え方を知ってから、日曜日はなるべく働かないように努めることにした。ご飯を作ることも労働の1つとみなし、日曜は外で食事をするか、何も食べないことを選択する。
月から土までは、1日1食だけ、玄米2合を野菜と一緒に炊く。料理の手間はほとんどなく、5分もあれば調理はできてしまう。しかし簡単ゆえ、このくらいの労働であればいいだろうと、安息日の掟を破り、ご飯を作ろうとする自分があらわれる。
これも善のふりをした悪だと感じている。質素倹約のふりをしているが、それが自分にこだわるものであれば、本質は前の例と同じである。
何もしなければ悪いことをしているような気持ちになる。じっとしていることが、不安となり、ついには耐えきれず何かに手をつけてしまう。しかし、何もしないと決めたなら、何もしないまま貫き通すことの方が自律的である。
善のふりをした悪とは、「自分」に耐え切ることができないことに通じている。じっとできず、その裏側で自分を誤魔化している。
今日書いたことは、一人静かに座ることの価値に通ずる。
呼吸をただ感じていればよろしい。痛みをただ感じていればよろしい。
苦しくても、悲しくても、寂しくても、焦っていても、何事でもないように、ただその中に浸っていればよろしい。
精神修養 #77 (2h/162h)
俗世の考え事から抜け出せず、自分という存在に引っ張られたまま、自分の輪郭を掴みきれなかった心地悪さが残る。
自己は膨張作用が常に働き、肥大化すると同時に、中心には重力のようなものも働いていると思う。意識のすべてを中心に引き寄せ、自分中心に物事を考え、自分中心に都合よく世界を歪めてしまう。今朝は、重力があまりにも大きく、輪郭を掴みたくても、自分から抜け出せない感覚があった。
自我には膨張作用が働いていることに加え、重力の働きもある。
[夕の瞑想]
今朝につづき、我の求心力に引き込まれ、輪郭を掴むことができない。我に飲み込まれているときには、天と繋がる感覚がない。天との繋がりを渇望することもまた自我であり、これに連鎖するように沼にはまってしまった。
考えることでは対処できず、最後には、意識と無意識の狭間にある呼吸だけがアンカーとなる。呼吸をただ感じていよう。痛みをただ感じていよう。
何もしなければ悪いような気持ちになる。じっとしていることが不安となり、ついには耐えきれず何かに手をつけてしまう。しかし何もしないと決めたなら、何もしないまま貫き通すことが自律的だ。
善のふりをした悪は自分に耐え切ることができず自分を誤魔化すことから始まるhttps://t.co/9jToHSzl4c— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) December 3, 2022
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