血の通う言葉だけに耳を傾けて。[280/1000]

失礼極まりない話である。私は卑劣だ。しかし、今感じていることの他に何も書ける気がしないから、感じていることを感じている事実として、恥を忍んで書き残すほかない。

 

私は今の仕事が生命を懸けるに値しないと感じている。

しかし、この生命を何に懸けたいのか、何に懸けるべきなのか、自分でも分かっていない。

 

そもそも、個人の感情や意志など本当はどうでもいいのかもしれない。

凡人は社会の駒となって、従順な労働力であるほうが社会にとっては好都合のはずだ。

 

そう思い、自己を言いくるめ、自己犠牲のもと、仕事に献身しようとする。

しかし、傲慢な生命は「こんなもののために死んでたまるか」と、献身しようとする私に、倦怠と無気力をアピールし、自滅をほのめかす。

 

倦怠のなかですべてがはじまり、自殺か、自己再建かの、どちらかの結末が訪れるとカミュはいった。

悲しいことに日本では、真面目な人間ほど、倦怠に献身を重ね、死んでしまうことも少なくない。

 

私はここで、死に到達するほど従順であることができない。

しかし、自己再建を欲しても、どう再建したらよいか分からず、文明から弾かれたまま、一方的に浮世離れしていく。

 

この命を奉げられる絶対的な存在がいたらと願う。

国のために死んだ人間が必ず不幸だったというのは、現代の価値感覚にすぎない。

 

生命を懸けるに値すると底から信じたものに死ねた人間は、仕合せだったと思うし、美しかったと思う。

国と個人の運命が一つである陶酔感に憧れる。

 

俗世の富貴を手に入れると、真理への努力は無意味に見えてくる、とファウストは言う。

この感覚がすごくわかる。だから、俗世の幸せを拒んで、自らを不幸に落とし続けてしまう。

 

しかし、幸せにも憧れがないと言えば、嘘になる。

幸せより仕合せを欲するが、仕合せのなかにも幸せを見出したい。

それ以外の幸せは、虚しく感じる。

 

さて、淡々と綴ってきたけれど、亡霊のような言葉しか生まれなかった。

実際、カミュのいうように、自殺も自己再建もできない私は、現実から弾かれているのだと思う。

どこでどう死んだらいいか分からず、結果、生が虚ろとなる。

 

この亡霊のような言葉が、現実を生きる人間には何の意味もないことを思うと申し訳ない。

生命の悲痛な叫びとして、神を希求し現世を彷徨う魂として、自己の脆さと卑劣さに恥を感じながら、ただここに言葉を残したい。

 

「こんなもののために死んでたまるか。」

もし今日のブログで、一滴でも血の通った現実の言葉があるとするなら、きっとこれだろう。

きっと虚な人間は、血の通う言葉だけに耳を傾けて生きていくのがいいのかもしれない。

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