未知を怖れる臆病な心、生に固執する貧相な魂が、地上の概念、型にはめられた正解や常識に縋りつき、安心を得ようとする。この度、家をつくるにあたって、一から十まで調べたが、ああしたほうがいい、こうしたほうがいいという意見はきりがなく、それらの奥底には強迫観念を感じるようだった。常識や正解にがんじがらめになりすぎると、何から何まで不安になってくる。夢を追い求めるはずの家づくりが、正解を求めるだけの建築工事となり、次第に失敗を恐れて手が動かなくなる。一つの界隈を覗けば、さも当然のように、皆が同じやり方で一様にこなしている。夢を追っているはずが、気づけば現実に迎合しているのである。もしくは、はなから夢などと尊いものはなく、生活と快楽の延長線にすぎないのか。
「少年は樹上に家を持ち、少女は人形の家を持つ」と、20世紀アメリカのフィリップジョンソンという建築家は言った。たしかにある程度は、建築の知識や技術は必要である。だが、一つの答えに固着すれば、夢の側へ飛び出すことができなくなる。在来軸組工法にしたって、ツーバイフォー工法にしたって、一つの建築様式にすぎない。夢を追う者にとって、やっていれば矛盾に出くわす。最後の最後まで突き出た人間は、矛盾を前にして現実に屈服するのではなく、自分の頭で考えて克服していったものじゃないか。そうならねば、所詮、迎合主義者と言われても、何も言い返せぬ。己はどう生きたいのだ。
2025.1.29