くだらない自我の数々が馬鹿馬鹿しくなる[914/1000]

まことに、わたしは願う。そうした狂気が、真理とか忠実とか正義とか呼ばれるものとなればいいが、と。だが善人たちは、ただ長生きをし、あわれむべき快適な生活をするために、徳を持っているのだ。

ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った

銭湯の回数券が残り7枚。寒さに凍えて死にそうになっても、銭湯にいけば全快する。この切り札があるかぎり、捨て身にだってなれるだろう。そう思って買ったはずが、実際は”攻め”より”守り”に使われているのは、我ながら盲点である。週に一度も湯船に浸かれば、私には十分である。回数券が貴重であることを思えば、使わずに済むときは使わぬに越したことはない。そんな心構えでいると、回数券を温存するための守備的な立ち回りが平時となる。実際、最後に銭湯に行った3日前は、気弱となり、寒さに仕事も手に着かぬような日であった。

どちらも”生きる”ことが目的であるが、前者と後者ではまるきり意味合いが異なる。前者は一度死に向かうが、後者は生に留まりつづける。利口なのは、温存しながら必要時に使う後者だが、潔いのは捨て身の前者だ。後生大事に握りしめたところで、それは己の望む生き方ではないのだ。冬の高貴な風に吹かれると、何のための生かを問われ、くだらない自我の数々が馬鹿馬鹿しくなるのだ。

さっさと家づくりを終わらせてしまおう。何もこんなこと、日曜大工が趣味でやっているのではない。森へ流れ、冬に迫られ、生きるために必要だからやっている。生命と魂の救済。己の関心はそれだけだ。

 

2024.12.21