何もすることがないのではなく、何かをする力がないのである。行動と死を選べずに、生の倦怠に耐えかねているだけである。
降りしきる雨のため、森の仕事をすすめることができない。物置小屋からじっと外の風景を眺めながら、昨冬のことを思い出した。隠遁中、現代的な娯楽がない暮らしでも、まったく退屈することはなかったが、一日だけ、今日と同じような断続的な雨の日は、おそろしい倦怠感に襲われた。外を散歩することもできず、かといって働くことも、読書をすることもできず、小さな部屋の一角で、ただじっとしているというのは、見かけ以上に苦痛であり、同時に屈辱的であった。
人間はどれほど無力に怯えたことだろう。原始時代は、荒ぶる嵐に命乞いをしながら、洞窟に身を潜めただろうか。圧倒的な力の存在を前に、己の無力を認め、その圧倒的力の存在を神と呼んだのだろうか。荒ぶる雷雨や海を見て、神様、どうかお鎮まり下さい、神様、どうかお赦し下さいと、手を組んで祈っただろうか。
今日は、たとい嵐が来ても、普段と変わらず、平穏と暮らすことができる。自然とは気象情報であり神様ではない。だが、人間と自然の力はちっとも変わらない。雨を前に何もできない己はただ無力である。ああ神様と、言うこともできぬまま。ただじっと過ごすことしかできない。悔しいが、それでいい。
2024.11.2